キャロルの庭 vol.5

俺の名前をなんというか、知っているか。

ここから先が出てこない。そもそも俺の名前を・・・だなんてずいぶんと偉そうだ。はたはたとキーを叩いては消し、叩いては文字を並べ、何度もカーソルが行ったり来たりする。そんな作業をかれこれ2時間は繰り返していた。画面上の物語はまだ1ミリだって進んじゃいないというのに。

一番苦手な仕事を後回しにするとこうなる。そんな自分をいちこは「ざまあみろ」という。後回しにするとどうなるか、と予測立てて動いたって苦手なものは苦手なのだ。きっとそこで時間をむしばみ、結果として時間がかかることに間違いはないだろう。人生はアクシデントなのだから、これでいい。

ふと外を見ると雨が降っていた。ベランダに出て洗濯物を取り込みながら下を見ると、濡れそぼつ地面にぱっと華やかな傘が咲いた。まあずいぶんと派手な紫だ・・・とよく目を凝らすと、それはいちこの傘だった。きたか、と思った。さすがに今日は逃げられない。

「東雲先生、こんにちは。」
「はい、どうも。」
雨のせいで夏だというのに、肌寒い。
「出来ましたか。」
「まだです。」
「ですよね。」
「心外だな!決めつけてもらったら困る。」
「でも、まだなんでしょう。」
「資料が足りないんだ、資料が。資料を用意するのだって担当の仕事だろ?用意して、用意。」
「俺は児童文学を狙うって、子供向け雑誌に連載を持ちたいって言ったのは先生でしょう?その企画書を書いたのは?」
「有能な君だ。多田いちこだ。」
「うん、で、物語を書いてるのは誰ですか?」
いちこはよくも悪くもしっかりした女性だ。仕事中は幼馴染の俺に対しても敬語だし、相好を崩すことはない。
「俺だ。東雲浩一だ。」
「ですよね。書くのは先生。資料は素案がないと用意すら出来ません。しかも、今ちょうど悪役が出てきたところでしょう。今の段階で必要な資料って何?」
「いじわるな、言い回しとか。」
ご自身の心の内にたくさんあるでしょうよ、と、呆れた顔でいちこは笑った。

外は相変わらず雨だ。
こんな日は、麦先生のサンドイッチと酸味のきいたコーヒーが飲みたくなる。原稿を書き始めてから、ずっと考えている。
麦先生は不思議な人だ。いつも人に興味のない顔をしてカウンターの中から世界を見つめている。身軽なはずなのにそこから決して動こうとはしないし、青柳と一体どういう関係なのか、仲がいい。おまけに酒屋の田町とかいう男のことを毛嫌いしている。(ように見える)。
「今日はキャロルに行きませんか、お夕飯。」
「珍しいな。いちこから誘ってくるなんて。」
「麦先生に会いたいなあと。」
「奇遇だな、俺も今麦先生のこと考えてた。」
「まあ、私が欲しいのは麦先生の原稿ですけど。」
「最近会ったか、麦先生に。」
「原稿だけはきっちり上げますからね、あの人。先週お会いしました。」
「とんだ才能だ。いい作家の素質があるな。」
東雲先生は締め切りさえ守ればまともな作家なのに、と呆れながらひとりごちたいちこはスマートフォンを持って立ち上がり、キャロルに予約の電話を入れたのだった。

(東雲先生といちこの関係が好き。)


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