【雑記】生活は地味なメロディに乗る

人は変化を嫌う。(それはもう、構造的にそうなんだそう。)
若干その節に反発を覚えながら、今日の私も「いつもと同じ(ように見える)日」を過ごしている。

いつもと同じ時間に目をこじあけて、スマートフォンの通知だけ確認する。パンを焼き、目玉焼きをこしらえている間にスープをあたため、湯を沸かす。ドリッパーをセットしたカップに湯気立つコーヒーポットを傾けるころ、家族が起きてくる。猫2匹がまとわりつき、おはよう、と声をかける。我が家の台所はオープン構造になっているので、リビングの向こう側には大きな窓が開けている。朝の光も、薄い膜を張ったような夜明けも、薄緑の朝靄も、オリエンタルブルーの雨も、ここからすべてが見える。
油のはぜる音、トースターのジジジ…という機械音、ポットのスイッチが上がる音。
すべてが不規則なリズムで、毎朝を当たり前の風景に変えていく。

地味なメロディに乗せた生活は、ふとしたことで変化を迎えたりする。
返事のない手紙や、亡き人の写真に問いかける夜半、痛みを持つ身体、伸びた爪へ感じる生命力、通知をすべて切ったスマートフォン、枯れていく花、やわらかい手のひらが私の髪をつかむ朝焼け、かすんだ視界にぼんやりうつる月、誰もが寝静まった夜の映画とお酒。
ときどきやってくる変化はマントを翻しその場を去っていくのに、私たちはいつもそこに置き去りになっている。変化を思い出に付して、今日も仕事着にそでを通して、街を「知った」顔で颯爽と歩く。

すべて持って行けたらいいのに。
「死んでしまったら物質としてはみんな同じになる。僕の骨も君の骨も同じなんだよ。」と言われたって、そんなことは分かっているけれど、死んだ先を夢見たい。そして全部を持って行ければと願う。
思い出だけでは、寂しすぎる。いつか死ぬと分かっているのに、それでもいつだって生きていたいと願うし、「いつもと同じ(ように見える)日」を今日も生きる。
やさしくできなかった日を悲しんで、やさしくできた日に気付かずに、死んでいく。


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