キャロルの庭 vol.8

いちこ、遅いなあ。
東雲先生はもう何杯目か分からないアルコールの入ったグラスをもてあそびながら、ひとりごちる。
「どうしたんでしょうね。読みふけってるのかな。」
店内の客数はまばらになりつつあった。調理の時間よりも洗い物の時間の方が少しずつ増える。あとでハンドクリームを塗らなければ。
「様子、見てきてくれない?」
「私がですか。東雲先生が行けばいいじゃないですか。」
「だって俺、もう歩けないし。」
ほら、酔っちゃって、と目線がゆるゆる解けていく東雲先生は確かに、人の様子を見に行けるほどの意識は持ち合わせてはいなさそうだ。
幸い店内は青ちゃん一人で大丈夫そうだろうということと、心配だから見てきてあげてという青ちゃんの一言をきっかけにして私はそっとエプロンの紐を解く。

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「誰も、来ませんね。」
はあ、と少しアルコールの匂いのする吐息をついたのは作家先生の担当さん、多田さんだ。
「心配してないのかな。」
はあ、とまた多田さんは息をつく。
「あ、その、なんだろう。心配してない、というか」
「いや、あながち間違ってないと思います。先生、すごい飲んでたし、限界量を超えるとまったく思考は使い物にならないので。」
はあ、と、何度目か分からない息をつく。

「たくさんあるんですね。ご自身で集めたんですか。」
「あ、本、自分はそんなに好きじゃないんです。」
「好きじゃないのに、こんなに。」
多田さんの指がそっと本の背表紙をなぞる、紙擦れの音が聞こえた。
「ここは祖父の持ち物だったんです。古書堂といえば聞こえはいいんですが、道楽みたいなものですかね。」
「お祖父様は本がお好きで?」
「好きだったと、思います。」
もう遠い記憶の中にしかいない祖父は、いつでも本とともにあったように思う。立膝をつき本を卓に広げる祖父の、浴衣から覗く膝はいつだってかさかさとしていて、骨が浮き出ていた。ああやって様々なものが削げ落ちて、いつか人は死ぬ。

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あらかた片付いた食器の山を背に、私はキャロルの外へ出た。
夏の夜空にあからさまな夏の大三角形がちらちらとまばゆくて、素直に「きれいだな」と思う。星が瞬き、月は冷たく浮かぶ。風は湿り気を帯びて行き交う人の頬をかすめる。
そこまで表現して、陳腐だなあ、と思った。作家なのに。
「あれ、麦先生じゃーん。」
びっくりするほど間の抜けた声の持ち主は田町だった。
「こんばんは。」
「先生なにしてんの。」
前掛けのない田町は、なんだか本当にその辺にいる青年だった。
ダビデ像さながらの顔の骨格、すらりと高い背、肩の丸み、深くて大きく開かれた瞳はごくごく一般的に見れば「ハンサム」の部類で、きっとこのほがらかで人懐っこい(私からすれば相当に鬱陶しい)性格だって、世の人からすれば好青年なのだ。
「多田ちゃんが、あ、うーん・・・。その、多田ちゃんっていう、友達が。」
「うん、多田ちゃんね。麦先生の友達ね。」
なぜだか涙が出そうになる。
それははて、自分の劣等感ゆえか、田町の存外に優しい声色のせいか分からない。
「ここから帰ってこなくて。」
「純平のとこ?」
「純平?っていうの?お店の名前?」
「違うよ、純平ってやつがやってる店なの、ここ。」
とりあえず入ろっか。
そう言って田町は淡いグリーンの扉に手をかけた。


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