キャロルの庭 vol.2

酒屋の名を、タマチという。
タマチはいつも間延びした声で挨拶をするけれど、目の奥には決して笑みが感じ取れない。
深い彫りからなる陰影は、きっと夏の日差しによく映えるのだろう。
そんな顔立ちを青ちゃんは「さながら平成のダビデ像だ。」という。

「それにしても今日暑いっすねー。」
タマチはにこにこしながら今日も軽トラックの荷台から荷物をおろしていた。
今日の私は、できたてのキャラメルみたいな扉を開けっ放しにする係だ。
押さえていないと閉まってしまう。

「ありがとうございます、そこに置いといてもらったら。」
なんて日だ、と思った。
いつもならば青ちゃんが対応するけれど、今日は私しかいないのだ。
「しゃべるんすね。」
「え?」
「いや、おねーさんと初めて喋った気がするから。」
夏の日差しがじりじりと、扉を押さえている腕を焼いていく。アスファルトにはふたつの影が色濃く並ぶが、タマチの唐突な雑談に私は顔を見ることが出来なかった。
きっと顔の陰影がはっきりしているんだろうな、と思いながら、並んだ影をただ見つめていた。
「はあ。」
「俺、田町です。田町商店。」
「はい、知ってます、ありがとうございます。」
「おねーさんは?」
限界だ。早く青ちゃんに帰ってきてほしい、と祈ったのは人生で二度目だ。
その瞬間、こんにちは、と通用口から声がかかった。
声の主は古本屋の店主ではなく、東雲先生だ。
「あれ、麦先生しかいないの?青柳は?」
「あ、東雲先生…。あの、青ちゃんならクリーニング取りに行くって言ってました。」
田町は東雲先生と私の顔を交互に見ながら、
「しののめ?むぎ?先生?かっこいいね。先生なの?」と、顔をくしゃくしゃにして笑うのだった。

「麦先生、今日でここ、何ヶ月目?」
東雲先生は今日もジンライムだ。
酸味のきついライムより、渋みのきいたものの方が好み。ステアはしすぎず、味はまだらの方がいい、それが東雲先生の飲み方だった。
「ん、どれくらいだろう。わかんないです。」
分かんないの?、と東雲先生はほがらかに笑った。
「東雲先生、原稿は。」
「まだ。だから逃げてきた。」
逃亡者とは思えぬのんびりさで、グラスにゆったり口をつける。
東雲先生との出会いはさて、いつのことだったか。
まだ既婚者だった頃、出版社でアルバイトをしていた私を気にかけてくれたのは東雲先生と、東雲先生の担当の多田ちゃんだ。
二人とも、下手すれば横暴とも取れる勢いで私を結婚の沼から救い出した恩人でもある。
「あの頃の夏樹ちゃんは見ていられなかった。」と、多田ちゃんは今でも笑う。

「最近ね、あの、裏の古本屋の穴場感に気付いて通ってんの、俺。」
「へえ。」
「麦先生は読んだことある?これ。」
そういって差し出されたのは、芹沢光治良の「結婚」だった。
「ふうん・・・。読んだことはありますけど。せんせ、わざと?」
「なんで?」
「だってこれ、結婚生活を豊かに送るために夫婦がコミュニケーションを取りつついかにパートナーシップを強くしていくか、みたいな話じゃないですか?」
だからね、と東雲先生はグラスの中身を一気に空にする。
「次の話は、麦先生の結婚生活を題材にしようと思って。真逆でしょ、芹沢光治良の結婚。」
東雲先生は、ときどき意地が悪い。

そうこうしている間に青ちゃんが戻り、東雲先生は私の作ったナポリタンを平らげ、その日はもうお客はこなかった。
22時をまわるころ通用口に空き瓶を片しにいくと、おんぼろ屋根の隙間から月がのぞく。
夏のべったりとした夜風の中、しずかに私は月を見上げていた。

(なんとまあキレの悪い出来だろうか。)


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