キャロルの庭vol.6

死してもなお死んだ人はどこへ行くのだろう、と純平は考える。
魂だけがこの世に残ってしまうのだろうか。そうだとしたら、天国とは一体なんのために言い伝えられているものなのだろうか。肉体は概ねほとんどの宗教と社会通念で処理されてしまうが。
死してもなお、残るもの、遺るもの。それは死んでしまった本人には分からない。俺には何も、分からない。
今日も暇だったなあ、とあくびをひとつ、こしらえる。
なんで本屋、しかもこんな古本屋をはじめてしまったのか、俺にもさっぱり分からない。日が暮れて、店を閉め、また翌日店を開ける。まるでそれは礼儀正しいお辞儀のように、角度の変わらない作業だ。埃と日に焼けた紙の匂いが鼻をくすぐる。そろそろ17時だ。シャッターを閉めなければ。

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多田ちゃんはいつもお店に入ると同時に「ごめんください。」と言う。
なんともその言い方が可憐でかすみ草のようで、私は好きだ。
今日は東雲先生も一緒なので経費で落とせる、といたずらに笑った。

「だからさあ、浩一は見切り発車すぎるんだって。可能性のあるもないも関係なしにすぐ飛びついて飽きてほったらかし。人間関係も仕事もそんなんだから見てて腹立つ。」
すっかり仕事時間から降りた多田ちゃんはグラスビールをあおりながら、東雲先生を呼び捨てにしていた。
多田ちゃんと東雲先生が幼馴染ということは私も青ちゃんも知っていて、その仲の良さから一時期好き合っているのではないかと勘ぐったことも、まあ、あったのだけれど、多田ちゃん曰く「それはない。」のだそうだ。眼鏡の奥の、緑味のかかった瞳がきっぱりと「それはない。」と言っていた。東雲先生に至っては、「そもそもこんな人気作家で幼馴染で顔立ちも資産もパーフェクトな俺を好きにならないいちこがどうかしている。」と言う。
私がキャロルで働くようになってから、青ちゃんと私、東雲先生と多田ちゃん、という奇妙な四人組は、変な結束感を日に日に強くしていった。青ちゃんと東雲先生はなんだか気が合うようで、時々二人で飲みに行くんだ、といつだったか青ちゃんが言っていたこともある。そんな風にして振る舞える青ちゃんも東雲先生も、私からすると異端でしかない。

他のお客さんの相手をしながら上手に青ちゃんは東雲先生と多田ちゃんの輪に入っていく。
私は東雲先生たちのテーブルに出すポテトグラタンをこしらえるため、薄くスライスしたじゃがいもを牛乳と一緒に火にかけているところだ。
料理は本当に楽だ。決められた手順をこなせば大方失敗することはないし、完成図はだいたい想像がつく。
ふつふつと牛乳が沸騰しそうなところで火加減を落とす。塩と胡椒を一振りし、じゃがいものでんぷんと牛乳で自然なとろみがつくまでじっと待つ。

「裏の本屋、お前行ったことある?」
各々のテーブルから手際よく下げてきた、油ぎった食器や曇ったグラスをシンクに下げながら青ちゃんは唐突に聞く。
「行ったことない。」
「本好きなのに?」
本が好きだからといって、どんな本屋でもいいわけなかろう・・・と呆れながら、ひとつひとつ手洗いを始めた。手荒れしやすいので、お気に入りのゴム手袋も付ける。
「なんでもいいわけじゃないもん。」
性的対象が男性だからと言って誰でもいいわけではないように、本だって、本屋だったらどこでもいいわけではない。
品揃えやレイアウト、店員の接客であったり、照明の明るさ、ひいては本棚の高さも好みがあるのだ。
「そんなもん?」
「そんなもんよ。なんで?」
「いやさ、東雲さんが、裏の本屋が穴場だって言うんだよ。なんか、めっちゃ古い本とか、プレミアつくんじゃないかっつーくらいのお高い本とか、そういうのがいっぱいあるんだって。」
「絶版書とか?」
「そうそう、それ。」
それはちょっと興味があるな、と思った。
自分が物書きゆえ、最近は人の書いたものにまるで興味がなくて困っていたけれど、古い本であれば同じ時代を生きる嫉妬心も生まれないかもしれない。
さて、茹で上がってとろとろになったじゃがいものスライスを丁寧に、バターを塗ったグラタン皿に並べていく。最後にあたたまった牛乳をじゃがいもが浸るくらいまで注ぎ、チーズをほんの少し削って散らし、オーブンであたためたら完成だ。

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「ごめんください。」
扉を開けると、埃っぽい匂いが鼻をくすぐった。
それは掃除をあまりしない東雲先生の書斎よりも好感の持てる、
本たちがそれぞれの旅路と歴史をここでそっと反芻しているような匂いだった。
(東雲先生のそれは、単に掃除をさぼっているから発生する匂いだ。)
店主はいないのだろうか。
左手首につけている腕時計を見ると、まだ17時半だった。銀色のベルトが、ほんの少し酔った体に重たくまとわりつく。

いちこの身長は同性の平均よりも少し高いくらいかもしれない。
それよりもさらにほんの少し高い本棚に押し込まれた本たちが窮屈そうにしている。
もう一度「ごめんください。」と声をかけてみる。
「あ、すみません、奥に、奥にいますんで、」
ずいぶんと通る声だ。そして、男性。
「ああ、はい。ごめんなさい、扉が空いてたので。」
そう言いながら棚の本をひとつひとつ、手に取ってみる。
すみません、と言って奥から出てきた男性の耳がまず、やたらと前を向いているのでいちこは驚いた。前向きな耳、というのもなんだかおかしいが、耳というのは通常は顔の側面に並行してついているものだろう。それがなんというか、前を向いているのだ。まるでひっぱったみたいに。
「ああ。耳、見てますか。」
少々不躾な目線を向けていたかもしれない、といちこは反省した。
「ごめんなさい、なんというか、えらい前を向いているな、と。」
「ですよね。」
そう言って男性は笑った。
「あの、私、裏のお店で今しがた飲んでまして。同伴者がここによく来るらしくて、いいところだよって聞いたので。」
「よく来る・・・。ああ、作家先生のことですか?」
「東雲、っていうんですが。その東雲の担当をしています、多田と申します。」
「東雲さんって言うんですね、あの人。」
「というか、よく分かりましたね。」
「お客さん、彼しかいないので。最近。」

重厚感のあるカウンターには古臭いレジスターがひとつ置かれていて、裏紙のメモやら先の丸くなった鉛筆やらが乱雑に転がっている。メモには「にんじん」とか「宇宙のルール」とか、「パキラが枯れる」など書いてある。線の細い字に少し胸がうずいた。私はこういう文字にも心躍ってしまうのか。半ば呆れながらも、かわいらしい文字の羅列を見ていた。
「あの、奥にも本、ありますけど。作家先生は奥の本をご覧になることが多いです。」
作家先生。
「そうなんですか、じゃあお言葉に甘えます。」
カウンターの中の右側には扉があり、どうやらそこを開けると一畳ほどの広さのパントリーのような作りになっているようだ。まるで秘密基地。
カウンター内にも本はたくさんあった。
植物図鑑、世界地図、鉱石図鑑、どこか遠い世界の民族にまつわる歴史、やたらと分厚い本が高く積み上げられ、読まれる順番を待っている。
秘密基地のような小部屋に入ると、扉がぎぎ・・・と、鈍い音を立てて閉まりそうになってしまう。
「すみません、古いのであちこち歪んでて。作りが。閉まっちゃうんですかね。」
「はあ。」
「自分はここに入る時、こうやって、」
男性はそう言いながら足で扉を押さえた。
「こうやって押さえるんです。」
まるで特効薬を発見した!と言わんばかりの表情だ。ただ、押さえているだけなのに。
「はあ、そうなんですか。」
そんなことよりもいちこは、棚に押し込まれた本たちに夢中だ。
これは浩一が夢中になって通い詰めるのも無理がない。
最近の本屋では若年層向けに表紙を新しく洒脱にしたもの、例えば漱石や太宰なんかが置かれていることがあるが、本はなるべく、当時愛された形のままで居続けることこそが役割を果たしているのではないか、といちこは考える。
そんな役割を果たした本が、ここにはある。

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「東雲先生、多田ちゃんは?」
あつあつのグラタンと取皿2枚をテーブルに置きながら、多田ちゃんの姿を探したが見当たらない。
「裏の本屋かな。」
「なんで。」
「穴場だ、って言ったら、行く!って。」
グラタンにさっそくスプーンを差し込み、一気にすくいあげ「麦先生のこれ、美味しいよね。」と、東雲先生はうっとりした。
「もはや性癖よね、あれ。性癖っていうかなんていうか。うーん。」
「作家らしい表現出来ないの?」
「作家らしい表現ができるんだったらとっくに売れてると思います、私。」
そりゃそうだ、それが出来たら苦労しないね、と、東雲先生は楽しそうにビールをぐっと飲み干した。


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