キャロルの庭 vol.9

「じゅんぺーい」
田町の間延びした声がさほど広くはない店内に響く。横に並ぶと田町の頬骨がよく観察できることが分かった夏樹は、こんな角度でそもそも異性を眺めたことがないなあ、とぼんやり思っていた。

上から下まで、といった表現のそのままに本が並んでいる様はさりとて図書館のように整然とはしておらず、なんだかちぐはぐだ。そのちぐはぐさは、ここの店主が裏通路でたばこを燻らせている時に似ている。彼はいつも夏樹を見つけると、左に頬を歪ませて笑う。

ドン、と床にも響きそうな音がしたのは、夏樹が本棚の中で眠っている谷崎潤一郎の「夢の浮橋」を手に取った瞬間だった。
その音は確かに夏樹の足もとがひどく揺らぐほどの大きさで、夏樹が怯むのには十分すぎる音だった。これは前夫が立てた足音でもなければ、ドアをわざと閉める音でもないしカップを机に叩きつける音でもない。大丈夫、私がいるところは安全だ。壁に穴が空くこともないし、不機嫌を蓄えた眉間の皺も、筋張った腕もここにはない。身体を痛めつけられることは、ない。

ふと、目の前に田町の彫深な顔があった。
「大丈夫?」
「え?」
その時、ドン、と音がした扉の奥から、「たまちゃん?」という呼びかけと、どうやら多田ちゃんらしい声で「だれー?」とが合わさって聞こえてきたとき、夏樹はこんな異次元的な空間でぼんやりと「たまちゃん」という名前を思い浮かべていたのだった。

================================

カウンター奥の扉前に出現していた本の関山を除け、扉を開けるとそこにはちんまく膝を抱えたいちこと裏となりーつまり、ここだーの店主。店主は体の線が細いわりに大きく、抱えた膝と顎がくっついてしまいそうなほど縮こまっていたのだった。
「純平、何?監禁してんの。そんな趣味だったの。」
「腰痛い」
「多田ちゃん、東雲先生心配してたよ。」などと銘々勝手に思いを吐き出し、何とはなしの興奮をそれぞれが抱える中、「とりあえず、キャロル。」と提案したのは「たまちゃん」だった。
「たまちゃんって呼ばれてるの?」
「え?…ああ、純平はね、俺のことたまちゃんって呼ぶの。田町のたまね。下の名前は司。」
関節という関節が音を立てそうなほどに伸びをしたいちこと店主は夏樹と田町を一瞥し、「体が痛い。」と同時にぼやいた。
大丈夫かよお、と語尾がゆらゆらする口調で田町は誰へともつかず投げかけるのだが、それが何とも嫌味でないからうらやましい、と夏樹は考える。
きっと私が同じようなしゃべり方したら他人を苛立たせるだろう、前夫もそのように言っていた。
お前は無知で、愚かで、傲慢で、他人を苛立たせる天才だ、と。
なんだか沸き立つ気持ちのまま、わあわあと騒ぎながら古書堂の扉を開けると、電柱の脇から薄い月がのぞいていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?