COTENRADIO 障害の歴史を聞いて

 COTENRADIOの障害の歴史を全話聞いた。障害について一家言あるということではないが、昔大学生だった頃に、「医療化」に関する講義を受けていて、何を医療の対象とするかは社会の要請によって決まる、みたいなことを聞いた(一生懸命勉強する学生じゃなかったことをとても後悔している)覚えがあり、予備知識がゼロじゃなかったことは頭に入りやすかったように思う。
 COTENRADIOの内容を文字起こしするつもりはないのであくまで感想とか、日頃障害について思うことなどを取り止めなく書いてみようと思った。
 私の義妹は知的障害で、彼女の家族や親族が、彼女に対してどのように接するかを見ていて感じたことや、私の長男が小学校入学後まもなく発達障害疑いであると学年主任に言われたこと、それをきっかけに実は自分が発達障害的な傾向があるのではないかと思っていることなど、障害について考える機会はこれまで無いわけではなかった。
 なんとか、私が障害について思っていることをまとめられたら良いなと思いながら書いていこうと思う。

障がい者との出会い

 小学校に入学したときに、「〇〇級」(〇〇は受け持つ先生の名前)と呼ばれる学級があり、そのクラスに同学年の障害の子がいた。彼はたまに一般学級の子供と一緒に活動することがあり、我が1年1組では私が彼の「お世話係」のようなものに就任した。就任した経緯は一切覚えていない。彼の障害の内容は知らされていなかったし、30年以上前のことなので記憶も極めて曖昧だが、少なくとも耳の障害と知的障害はあったと思う。この頃の思い出はもはや薄れまくっていて詳しく考察しても後付けになってしまうので、あくまでそういった経験をしたというだけの話に留めたい。これが障害のある人と関わった最初の経験だった。

中学高校時代

 中学に入学したときに、発達障害と思われる(今考えれば)同級生が何人かいた。私立中学で、中学入試するやつが障害者なわけがない、みたいな思い込みがあったので当時はすげー変わったやつぐらいにしか思っていなかったが、今考えれば発達障害だったのだと思う。アスペルガーとかADHDとか。彼らとは特に関わることもなかったので彼らについての記憶はほとんどない。中学高校時代は障害のある人と関わる機会もなく、あるとすれば同学年の彼らや通学の電車内で見かける人たちぐらい。この頃は電車内で見かける彼らを、「俺らとは違う世界の住人」ぐらいの感覚でいたと思う。恥ずかしながら差別意識を持っていたことは否定できない。

大学時代

 大学時代は身近に障害の人がいたわけではないが、特に2年次以降は専攻分けの影響もあり(真面目に講義を受けたとはとてもじゃないが言えない)多少知識として触れることは増えた。また、2年次の語学クラスで、私の前の席だった男性が、夏休みを境に女性になっていた(女性的な服装や髪型をし、メイクなどもしていた)ことで、非常に興味を持った。はっきり言って最初は極めて下世話な好奇心だったことは認めざるを得ない。が、ジェンダー論の講義などを(ほんの少しだけ)聞いたことなどから、考え方が少し変わっていったように思う。トランスジェンダーを含むLGBTQは知的障害や身体障害のようなものとは違うかもしれないが、マイノリティであり、マイノリティである彼らがマジョリティのために設計された社会をどう生きるのかということについて考えるようにはなっていった。
 また大学時代に、今の妻と知り合い、実家にお邪魔するようにもなった。義妹と出会ったのもこの頃で、彼女の祖母(私から見て義祖母)からは「可哀想な子」として超絶大切にされ、彼女の母(同義母)からは他の娘たちと同様の扱いをされ、母と祖母から全く異なる扱いをされていることに驚いた。この頃から「可哀想な子」扱いとは実は差別意識の裏返しではないかと思うようになった。

大学卒業後

 大学を卒業して間もなく結婚し、長男が産まれた。保育園の頃はうまく言葉で表現できず手が出てしまうことがある、というようなことを言われたことはあったが、それが「障害」と言われる可能性があるとは思いもしなかった。小学校に入学して間もなく、1年生の学年主任から呼び出された。長男が雑巾を濯ぐ用のバケツに水を入れた状態で、それを頭に乗せて歩き(もちろん手で支えている)、歩くたびに水が溢れるのを上級生が拭いてくれていた、という場面を学年主任が目撃し、これは発達障害かもしれない、と思ったらしい。発達障害に関する知識はほとんどなかったので、何言ってんだこいつ、と思ったのだが、発達障害について本を読んだりネット検索をしたりしても、なぜそのエピソードで発達障害を疑ったのか理解できなかった。その後彼が書いた文字などを確認して「字形」とやらで疑念を補強したようだが、中学生になった今、極めて普通のまあそれなりにきれいな字を書けるようになっており、字形とは何だったのか今もわからずにいる。結局医療センターへ連れていき、医師からは「発達障害って書いてほしければ書いてあげてもいいけど」ぐらいの話をされ、必要ないと思ったのでお断りしたが、発達障害的な傾向が一切ないとは思わないし、そんなこと言い出したら次男、三男だってそうだし、まだわからないが長女、次女だってそうかもしれない、というか多分少なからずあるだろう。結局どこに境界線を引くのか次第なのではないかと思っている。

義妹の話

 私が生きている中で、最も近い障害者といえば義妹ということになると思うが、生活を共にしているわけではないし、数ヶ月に1回会うぐらいの関わりなので、障害者を取り巻く環境の厳しさをよく知っているわけでもない。作業所に通って、1ヶ月で子供の小遣いみたいなお給金をもらい(賃金ではない)、保護者である義母のもとで生活しているのを見ると、障害者が自立して生きることの難しさを感じる。障害者自立支援といいながら、いずれは施設から離脱させることを目標としているようには見えないあたり、自立支援というのは名前だけなんだなとは思う。親が子より早くに死ぬ可能性は高く、義妹はいずれ保護者を失う可能性があり、保護者を失ったときに次の保護者がいないと生きていけないであろう可能性が高いことは、障害者支援をどう行うかを考え直す必要があるということではないかと思う。

人文知について

 ここからはCOTENRADIOでシリーズの最後に深井君が言っていたことなど。障害に限らず、様々なラベリングを元に起こる差別というのはそこら中に溢れていて、差別反対の立場の人が一部の集団に対しては差別的な態度や発言を行ってしまうことも少なくない。差別が良くないなんてことは多分小学校でも習うし、多くの人が同意するところだと思うのだが、自分自身が差別主義的な思考を持っていることについて疑いを持っている人は少ないのかもしれない。良かれと思って行った行為や、常識的だと思って下した判断が、自分以外の人にとって本当に良い行動や判断だったのか、というのは疑う必要があると思っていて、相手が自分と同じ判断基準を持っていないことは常に想定しておいた方が良いと思うことは往々にしてある。自分は差別主義者でなんかあるはずがないと思っていても、差別的な思想を持っていたり発言をしてしまうことはよくあるのだ。自らの信じている正しさが、身近な相手にすら共有できないこともしょっちゅうで、また、その正しさ故に他者への攻撃を自ら正当化する、あるいはその攻撃を攻撃であるとすら認識できていないこともあるということを忘れないようにしなくては、と常々思っている。様々な立場や価値観や感じ方があるということを知ること、物事を単純化して簡単にわかろうとしないこと、だがしかしわからないと諦めず様々な現象や考え方や立場を理解しようと努めること、現象そのものを絶対視しないこと、現象そのものだと思っていることは既に自分や他者の見方を通していると意識すること、なんてことを意識してみようなどと改めて思ったりした「障害の歴史」シリーズだった。

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