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上椎葉ダムから吉川英治を想う

上椎葉ダムによりできた湖には、名前が付けられています。
「日向椎葉湖」です。
命名者は、国民的作家と言われた吉川英治。
日向椎葉湖が見下ろせる女神の像公園に、吉川英治の筆による碑が建っています。

吉川英治の碑

吉川英治は、58歳からの7年間で「新・平家物語」を書きあげました。
物語の最後は椎葉が舞台です。
平家の落人を追討する命を受けて椎葉山に来た那須大八郎と平家の落人の鶴富姫との逢瀬を描いています。

週刊朝日に連載した「新・平家物語」の取材で別府に泊まった吉川英治は、酌婦のはに子さんが歌う椎葉村につたわる民謡「ひえつき節」を聞いて、椎葉のことを知りました。いつか行きたいと思っていました。

日向椎葉湖の碑の除幕式に出席する予定でしたが、体調不良のために来ることができませんでした。
1962(昭和37)年9月に国立がんセンターで亡くなりました。70歳でした。
吉川英治の筆によるひえつき節の歌詞の碑が、鶴富姫の子孫が住んでいた鶴富屋敷の庭にあります。私の実家には、そのコピーがあります。

ひえつき節

吉川英治は、父が事業で失敗したことから、小学校を11歳で退学して職場を転々とします。17歳からは横浜のドックで働きました。
19歳になり、太平洋航路で活躍している1万トンクラスの信濃丸の外装に赤いペンキを塗る作業に従事していたときに、足場から転落しました。

病院の副院長からは、「うまく落ちたな、こんな程度で済んだのは奇跡だ。命拾いしたんだよ、君は」と言われました。
母の献身的な看病を受けて、幸いにも障害を残さずに約一月後に退院することができました。
死にかけた英治の、ドック勤務を辞めて東京に出て作家の勉強がしたいという願いを、父は赦してくれました。1911(明治44)年のことでした。

英治が落ちたときの足場の高さは12メートルほどでした。
足場の板と一緒に落ちて、板がクッションのようになったようです。
腰を打って身体が一瞬跳ね上がって転ぶときに、肩や脚などを痛めるだけで済みました。板が無かったら、頭蓋骨粉砕で即死したでしょう。

このときに、上椎葉ダムの建設工事で転落した作業員のように亡くなっていたら、「宮本武蔵」や「新書太閤記」などの日本文学に燦然と輝く作品群が無かったと思うとぞっとします。
ハーネスも付けずに高所作業をさせていたら、労働基準監督官から労働安全衛生法違反で現場の事業者は、書類送検されるでしょう。
吉川英治は、文学の神様から守られていたと思います。

東京都青梅市にある吉川英治記念館には、吉川英治の書斎があります。

執筆する作業机の上の本棚に「日本医学史」がありました。
このときの経験から、医学を重視していたのだと思います。

吉川英治は「我以外皆我師」の色紙が有名です。
直筆の「安全第一」の色紙があれば、全国の事業者が購入して社長室に飾って、職場の安全対策が進んだかもしれません。

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