ノーベル賞作家の川端康成は、ハンセン病の患者が作家になることを応援した。
川端康成は、日本人初のノーベル賞作家です。
私が小学生の頃に、川端康成の小説「伊豆の踊子」が映画化され、主演の山口百恵さんは、共演した三浦友和さんと後に結婚しました。
東京にいたときに、伊豆は近かったので、何度か行きました。
「伊豆の踊子」の文学碑や、石川さゆりさんの歌「天城越え」に出てくる「浄蓮の滝」を見ました。
川端康成は「たまゆら」のエピソードのように宮崎県と関係がありますが、ハンセン病とも深い関係があります。
1934(昭和9)年にハンセン病の患者の北条民雄が、小説を書いて、川端康成に手紙を送っています。
川端は、どこの誰だか判らない北条民雄に、丁寧に返事を書いて、励ましました。
「いい作品を書いたら、自分が雑誌に掲載できるようにする」と言っています。
当時、ハンセン病患者は療養所に隔離され、外界との接触はほとんど絶たれていました。
そのような中で、人気作家の川端から励まされ、療養所の中で創作活動を熱心に行いました。
北条民雄が書いた小説は、川端康成の紹介で雑誌に掲載され、文学賞も受賞しました。
1937(昭和12)年に、残念なことに北条民雄は、腸結核で亡くなります。23歳でした。葬式に、川端康成は出席しています。
川端は、北条民雄全集の編集・出版も行いました。
作品集「いのちの初夜」は、現在は角川文庫から出版されています。
角川文庫には、北条民雄と川端康成の交流を描いた「火花 北条民雄の生涯」という作品もあります。
著者は、宮崎県高千穂出身の髙山文彦さんです。
髙山さんは、高千穂あまてらす鉄道の代表取締役も務めています。
ハンセン病の歴史を知ると、本当に悲惨な話が多いです。
世界的にみても、ハンセン病患者は迫害をされてきました。
鼻がとれたり指がなくなったりする典型的な症状が、「神の罰」とか「汚れた血筋」などのゆわれなき差別を生んできました。
宮崎県にはハンセン療養所はありませんが、日本全国に13か所あり、九州では、熊本県、鹿児島県、沖縄県にあります。
なかでも熊本県は、全国から多くのハンセン病患者が集まってきたところです。
熊本城を築いた加藤清正は、ハンセン病に罹っていたと言われています。
「清正を祀っている本妙寺に参拝すると治る」といういいつたえもありました。
熊本市には、リデル、ライト両女史記念館があります。
この二人の英国人女性は、ハンセン病救済に生涯を捧げています。
ここは我が国のハンセン病の歴史を知るのに、大変有益な場所です。
つれづれの友となりても なくさめよ
ゆくこと難き 我にかはりて
1932(昭和7)年11月10日の御歌会において貞明皇后が、ハンセン病患者を慰めるために詠まれたものです。
1937(昭和12)年4月26日付けで、楓苗下賜書状が送られました。同年11月10日にこれを記念して建立されました。
瀬戸内海の島にある療養所を視察したことがあります。
現在も、船でしかいけない療養所で、昔の記録などを見せていただきました。
療養所の中では文学サークルがさかんで、小説を書く人も多くいました。
北条民雄の影響かもしれません。
北条民雄と川端康成との交流は、悲惨なハンセン病の歴史の中で、唯一心が安まるエピソードのように思えます。
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