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沖永良部島の伝説をめぐる「世の主スタンプラリー」をやって友達が増えた話。

 沖永良部島の真ん中あたりに越山(こしやま)という山があって、およそ600年前に島を支配していた王様の城があった。その城は現在、世の主神社になっている。「世の主(よのぬし)」と呼ばれた王様は、今でも島民から親しまれていて、巨大な墓も残っている。

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 僕が沖永良部島に初めてやってきた去年の夏、宿の主に連れられて「まずは世の主に挨拶をしに行きましょう」といって、お墓まいりをした。二重の石垣に囲まれた墓の敷地に入ると、気温が2度くらい下がったように感じた。もう一つの扉を開けて、玄室に手を合わせて拝んだ。
 あいさつを終えて帰ろうとすると海から爽やかな風が吹いて、なんだか「いらっしゃい」と歓迎してくださっているような気がした。
 石垣を出たとき、一斉に蝉が鳴きだした。いよいよ本格的にスピリチュアルな気分になってしまって、沖永良部島の精霊と生活をしていくんだなと妙な覚悟をしたのだった。

 沖永良部島には、観光協会がある。保育園をリノベートした観光協会はコワーキングスペースを併設していて、僕もよく使わせてもらっている。ある日そこで方言ミュージカルの作業をしていたら、どこからだったか「世の主スタンプラリー」という言葉が聞こえてきた。観光協会の古村さんがニコニコしながら
「金田一さんもちょっとアイディア出しで手伝ってもらえたらうれしいなぁ、なんて」
とか言うものだから、詳しい話を聞いたら、面白そうだったのでオンライン会議に参加させてもらうことになった。

「世の主スタンプラリー」はエラブネクストファーマーズというオシャレ農業団体の企画で、代表の要秀人くんとはすでに友達だったので、すんなりと受け入れてもらえた。
 コロナ禍でなかなか外で遊べない子供たちが3密を避けながら遊べて、島の歴史に触れることも出来る企画、ということでスタンプラリーになった。移動には保護者の運転する車が必須だから、常に大人の目が届いているし、よく考えられていた。
 世の主とその四天王のゆかりの土地を車でめぐって、それぞれの場所で四天王から子供たちにミッションが下り、それを見事クリアすればスタンプをもらえる。なんて、ワクワクするんだ。小学生向けの脱出ゲームじゃないか。

 オンライン会議ではミッションのアイディアを固めるということだったので、和泊の歴史民俗資料館の先田先生から世の主伝説を集めた本を借りて、台風10号が島を襲っているときに読み込んだ。

 世の主と四天王に関する伝説は限られているので、ここでは主な伝説を紹介しようと思う。

世の主の伝説
 琉球王国が北山(今帰仁周辺)・中山・南山と分かれて覇を争っていたころ、北山の王を沖永良部島のノロ(神官)が訪ねた。この時、ノロに同行していた美しい女性は北山王との間にのちに世の主となる子の種を宿した。
 いよいよ出産が近くなると、今帰仁から沖永良部島に帰って、実家で出産をしようとしたが、港に着くと島は祭の最中で、身重の女は上陸することが出来なかった。屋子母と住吉の港で断られ、沖泊港にひそかに上陸した母はしばらく歩いて実家に戻るが、ここでも家に入れてもらえなかった。
 小雨降りしきる中、蓑をかぶって、とある小屋(馬小屋?牛小屋?)で世の主(幼名「真松千代(まちじょー)」)を産んだ。石を三つ立ててかまどにして、産湯を焚き、粥を作って寒さをしのいだという。いまでも下城にある世の主神社にはこのかまどにした石が神体として祀られている。
 成長した真松千代は、母に自分の出生の秘密を聞き、北山王を訪ねる。水鏡の儀を経て、真松千代は自分が正統な北山王の血を引いていることを証明して、北山王から沖永良部島を支配するように言われ、えらぶ世の主になった。
 やがて、中山が沖縄を制覇し、攻勢の手を沖永良部島にまで伸ばしてきた。世の主は那覇からの船をみて、与和の浜まで四天王たちを遣わした。
「もし、軍艦であれば赤い旗を、和議の使節船であれば白い旗を上げよ」と世の主は言い含めておいた。
 与和の浜に着いた船は果たして和議の船であった。四天王とその家来たちは気を許してその場で歓迎の宴を始めた。と、旗を上げることを思い出した者が酒に酔いながら誤って赤い旗を上げてしまった。
 風に吹かれた赤い旗を確認した世の主は、戦争しても勝ち目はないと悟り、自分の命と引き換えに島の安全を守ろうとして、妻と共に自害した。これを知った四天王たちは、自分たちの過ちを責めて殉じようとしたが、四天王の一人である屋者真三郎(やんじゃまさばる)が「我々が死んでしまっては誰が世の主様を供養できるのだ。」と言って思いとどまったという。屋者真三郎は後に琉球から石工を連れてきて、世の主の墓を建てた。

後蘭孫八(ごらんまごはち)の伝説:
 後蘭孫八は元々平家が壇ノ浦で南に落ち、喜界島に上陸。その子孫が沖永良部に渡り豪士としてふるまったのが後蘭孫八だった。もともと孫八の家だったところを、世の主が気に入って、欲しがったので、明け渡した。世の主は代わりに「どこでも好きな土地を授けよう」といったので、孫八は後蘭の土地に城を築いた。東西北を沼地にして、南だけを守ればいいようにした、天然の要塞だった。城作りが上手な孫八には歌が残っている。

ぐらる孫八が 築(ち)だぬ城(ぐすく) 
今(なま)や 三十(みそ)ノロぬ 遊び処
ぐらる孫八や 勝(すぐ)りむんど やたる 
平城手渡ち 上城築(ち)でぃ
(後蘭孫八は上平川の平城から、内城の上城を築いた時、手つなぎで上平川から内城まで石を運んだという)

西目国内兵衛佐(にしみくにうちべーさ)の伝説
 腕力では四天王の中でも秀でていたと言われるが、どこか乱暴な印象を受ける。今もあるタシキ俣の大岩石にまつわる伝説は複数伝わっている。
 世の主没後、勢力争いが起こった。屋者真三郎との戦の際、西目上原(ういばる)に砦を築こうとしたが、なかなか出来上がらないので、怒った国内兵衛佐は大岩石を三つ左足で蹴り上げて一気に城を築いた。それが「チギシ」として残っている。
【タシキ俣の伝説①】 国内兵衛佐と後蘭孫八で戦争になった。西目軍が強く、ターシキシーで陣を張って決戦をしたので、一騎打ちになった。孫八は「西目が火事だ」と言って国内は少し西目を見た。その時孫八が斬りつけて首をはねた。倒れながら国内が孫八の首を蹴り上げたので、孫八の首も飛んだ。国内が倒れるとき、大きな刀は側にあった大岩石を両断した。以来、怨霊が出るので西目から和泊に馬に乗って通ると怨霊が現れる。そこで通行人は「トゥチタボリ、トゥチタボリ(通してください、通してください)」と何度も唱えて頭を下げて通らねばならなかった。
【タシキ俣の伝説②】城の帰り、孫八と国内がタシキ俣でひと休みしている時、孫八が「西目が火事だ」と言うと、国内は西目の方を見た。とたん、孫八は国内の首を切った。
【タシキ俣の伝説③】世の主の召集を受けて、孫八がタシキ俣に来た時、国内兵衛佐が先を行くのを見て、「西目は火事だ」と叫んだ。振り向いて西目を見ているすきに孫八は追い抜いた。怒った国内兵衛佐が刀を振るっても届かなかったが、刀は大岩石を割っていた。

屋者真三郎(やんじゃまさばる)の伝説
 四天王の中でも特に頭の回転が早かった。世の主自害後、四天王で話し合った時に「私は死なない。世の主の墓を作るのは誰だ。」と言って、切腹を思いとどまらせた。真三郎は沖縄に渡り、石工を連れて内城に世の主の墓を作った。完成後、同じような墓を自分のために作らせた。他にも測量など学問を島民に教えたという。

国頭弥太郎(くんじゃいやたろう)の伝説
 国頭弥太郎はもともと平家の子孫で、落ちて流れてやってきて、沖永良部に居ついた。とんでもない大男で背は九尺あったという。この男をどうするか、村の人々は百や祝女を交えて考えたが結論はなかなか出なかった。そのうち、弥太郎は魚を取り、浜で焼き、村人たちに分け与えた。村の人々はこれで心を許し、弥太郎と交流していった。弥太郎は村民に漁や狩り、農耕を教え、特に鉄(鍬や鎌)を使った技術は弥太郎が教えたものだろうと言われている。
 伝説では「国頭から越山までを一股で歩いた」とか、「越山に枕すると国頭に足が届いた」とか言われたほどの大男で、さらに素早さで言えば「麦を刈る時は一束ゆって天に放り投げ、落ちてくる間にもう一束刈って結っていた」とも伝わっている。力も強く「船を一人で陸揚げした」とか、「マー石」弥太郎が斬ったというマー石があるし、アンザの海岸の崖には弥太郎が投げつけたという大きな人型の岩がハマっている。

 以上のように魅力的な伝説を残している四天王がどんな試練を課すだろう。考えると楽しくなっていた。

 閑話休題。アイデアを持ち寄るオンライン会議で僕はそれぞれのミッション案を披露した。僕の出したミッションはすでにいくつか決まっているミッション(ビーチクリーンや孫八の城をめぐるといった素敵なものだった)もあって、四天王が待ち受ける場所も決まっていた。すると今度はミッションに故事をこじつける作業が必要になっていた。
「どうして参加者は四天王を訪ねなければいけないのか?」
「四天王はなぜ試練を課してくるのか?」
「スタンプラリーを終えて得られるものは何だろうか?」
「5人目の四天王になるための試練て面白そう!」
 実行委員会のオンライン会議はとてもクリエイティブな雰囲気で進んだ。
僕が「じゃあ、ここで出たアイデアをまとめて、台本を週末までに書きます」と宣言して金曜日に仕上げた。久しぶりに〆切を守ることが出来た。

 誰が演じるか、衣装はどうするか、宣伝はどうするか、当日の運営はどうするか、様々なことをネクストファーマーズはその迅速で確実な行動力でやってのけた。気づけば僕は「あとは衣装を着て、演じて、スタンプを押せばいいだけだ」という気分になっていた。企画のためのクリアな議論のすべてはFacebookのメッセンジャーを通じて行われた。こんなに風通しのいい企画は一人一人の仕事への高い意識の賜物だっただろう。みんなが「みんなのおかげでこの企画ができた」と言い合える、理想的なチームだったと思う。

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スタンプができ、スタンプカードが完成し、衣装が揃い、ミッションのための道具がそろい、本番の前日に最終打ち合わせが行われた。僕が書いた台本を声に出して読んでもらうのは島に来て初めてだった。参加者数は軽い驚きをもってが発表された。予想以上だった。

スタンプラリー当日。おにぎりを三つ作って、鞄の中にある衣装を何度も確認した。原チャで走りながら大声でセリフを繰った。曇り空で少し心配だったが、8時には晴れ間が見えた。手伝いの幸山さんがやってきてくれた。(としさん、参加者のチェックや動画の記録、暇つぶしに付き合ってくれてみへでぃろどー。)地区の区長さんがいらして、世の主様が産まれた場所であると言われている神社の由来を聞き、気が引き締まった。メッセンジャーで実況ツイートがなされて、それぞれの地点に四天王がスタンバイしたのが分かった。僕は西目国内兵衛佐に扮して子供たちを待ち受けた。

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 鳥居の下にいる僕をみて、大人が子供たちに「ほら、なんかいるよ」という。少し怖がりながら子供たちは合言葉の「うがみやぶらー(こんにちは)」を叫びながら近寄ってくる。元気な男の子は「なんでフラフープ持ってんの!?」「ミッションなんですかー?」とゲラゲラ笑いながらやってくる。小さい子供は親の足にしがみついてやってくる。女の子はニコニコしながら少し緊張した顔で神社にやってくる。
 こういうときの接し方をそういえば僕は習ったわけではなかったけど、例えばディズニーランドや日光江戸村で感じた「虚構に誘い込むための鉄則」を思い出しながら、演じ続けた。「中に入ってる人暑くないですか?」の質問に「何のことですか?中の人などいません」と言いつづけるアレだ。「海賊だー!」「あなた誰ですかー?」の質問については「西目国内兵衛佐である」と答え続けた。参加者の一人一人の目を見て、伝わるようにはっきりとしゃべる。10回も暗唱すれば覚えられるくらいの決まったセリフは緊張しないための支えになってくれる。ミッションの難易度は参加者を見て決める。などなど。

 ミッションを突破した参加者にスタンプを押して、次の場所へと送る時、とある女の子が「ひとつ質問いいですか?」と緊張した面持ちで来た。
「なんだい?」と応えると「それって地毛ですか?」と言われた。
「地毛だよ」とガハガハ笑って答えた。髪を伸ばしててよかったと思えた。

 11時半にはすべての参加者が僕のチェックポイントを通過したとわかったので、越山の世の主神社に参じた。
 すべての四天王からスタンプを集め終わった参加者とともに山をのぼり、青空の広がる世の主神社に辿り着いた。世の主に扮した要君と少し喋り、山からの景色をずっと見ていた。

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この企画を通じて、沢山の人と出会えた。これからもよろしく、と気持ちよく言える人ばかりだった。

 記録をしてくださった吉成さんの動画が当日の夜には完成していた。早すぎてビビった。この動画を見ながら、打ち上げ会場に向かった。
 翌日の朝まで飲み続けていたので、打ち上げのことは、二日酔いの頭痛と共に記憶の彼方へ飛んで行ってしまった。

世の主スタンプラリーに、誘ってくれてありがとう。
この企画に関わったすべての方々のおかげで、僕は明日も生きていられます。

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追記:今回の企画が南海日日新聞と奄美新聞、琉球新報に載りました。
南海日日新聞「世の主スタンプラリー開催 沖永良部島」2020/9/23
奄美新聞「沖永良部通信『世の主スタンプラリー』2020/9/23
琉球新報 2020年9月30日付↓

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