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草稿

その少女をAと呼ぶことにする。国家が人口の再生産にのみ固執した結果として、今や個人は名を持たなくなった。少女Aの曽祖父母の代まで、人々は固有の名前を持っていたというが、Aはそのことを知らずに生まれ、育った。

Aは高校の制服のカッターシャツと臙脂色のリボンに、ブラウンを基調にした膝上7cm丈のチェックのスカートと紺色のハイソックス、こげ茶のローファーに身を包み、肩に合皮の通学鞄をかけて新宿の街をゆく。明治通り沿いのファッションビルの脇の細道に入り、さらに右折、路地に入ると、彼女行きつけの「喫茶室」がある。鉄筋コンクリートの生い茂る街に不似合いな木製のドア、を押しあけるとドアに吊るされた真鍮のドアベルが鳴る。

「喫茶室」はそこここに存在しているが、Aはこの、時代錯誤な設えの店が気に入っていた。それが「喫茶室」の実態とかけ離れているからなおさら。オーナーの男はAを見とめ、いらっしゃい、と慣れた風に言う。彼が席を案内するまでもなく、Aはいっとう壁際の、かろうじて間接照明の明かりが届くのみの薄暗い席に着いた。

Aはまず、テーブルに備え付けられたヘッドフォンを手に取る。耳あてのRとLを確認して、左右に反転させたあと頭につけた。それから、机から生えたチューブを首の後ろに届く長さまで引っ張って伸ばす。そして目を瞑ると、それを首の後ろに空いた穴に差し込んだ。すると、チューブを鈍色のような、虹色のような——形容しがたい色の液体が這い上がってくる。彼女は一層強く目を瞑る。チューブから流れ込む液体とヘッドフォン流れ出す音が彼女たちを「上昇」へと導く。「喫茶室」は、それを売るための店である。

Aの首の穴は一年前に開けたものだった。そこそこ仲の良かったクラスメイトと手術を専門に請け負う店に行き、揃いで開けた。普段は長い黒髪に隠れるそれのことを親にはまだ黙っているが、同級生の過半数が穴を持っているいま、おそらくそれとなく勘付かれてはいるだろう。


飽きました。

お小遣いください。アイス買います。