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なにもなくとも死にたいことも、ある。

死にたい貯金をためている。たまったら何になるのか知らないし、いまどれくらい溜まっているのかも知らない。
意味もなく死にたくなる、と言ったら、あなたは私を軽蔑するだろうか。
私は、人は死にたい生き物だと思っている。これは私の実体験からで、中学生以降ずっと死にたいと思いながら生きているからだ。日々、楽しいことや嬉しいことがないと言えば嘘で、でも、そういうことがあってもなお、やはり死にたいと思う日の方が多い。数えたことはないから、体感だけど。

「命の大切さを知らないから、死にたいなんて軽率に言えるんだ」

そう言う人がいる。具体的に誰ってわけじゃないけれど、きっとそう思う人はいると思う。それはなんていうか、「ごはん食べられない発展途上国の人がいるのに、ごはんを残すなんて、なんて贅沢な!」みたいな、そういうものだと思う。
それは正しいかもしれないし、実際正しいんだろうとも思う。

でも、いくら命の大切さを知っていても、死にたいものは死にたいのだ。それも、意味もなく。

私は、ステージ4のガンを患ったことがある。五年後の生存確率が五割と言われたことがある。普通の人より、普通の健康な二十代より、少しばかり命とか死とかと近いところで生きてきた。
だけど、なのか、だから、なのかはわからないけれど、日々うすぼんやりとした「死にたい」というベールに包まれて生きている。

不思議と「死にたい」と口にするごとに、息がしやすくなる。この現象に、どういう名前がついているのか、私は知らない。

貴方は自分を殺したことがあるだろうか。
私は、ある。

高校生の頃、学校に行くのが嫌で嫌で仕方がなかった。健康な同級生を見るのが嫌だった。思い通りにならない身体が嫌だった。それを理解してくれない両親が嫌だった。
毎日、電車に乗りながら泣いていた。泣いても泣いても、涙が出た。

そういう時、私は自分の心臓を、鋭利なナイフで刺し殺す想像をする。
血が、あふれて、命が薄らいでいく様を想像する。

すると不思議と、呼吸が楽になるのだ。

私は、生きるために自分を殺していた。
それは中毒性のある行為で、どこか麻薬みたいな、一刻の痛み止めにしかならないものだ。それでも、一時でも、その時にあふれる「死にたい」の嵐を鎮められるなら、私は自分だって殺した。

こういうことを、本当は書きたくない。
なにかこう、「病み」とか「鬱」とか「死ぬ」とかを、共有することで、なにが起こるかわからないからみたいな、そういう不安があるから。

だけど、書かずにもいられない。
こうすることで、また私は生きていけるのだから。

端的に言って鬱病って面倒くさい。
面倒くさいって思われたくない。
でも、書かなくちゃ生きていけない。
生きることって、本当に矛盾だらけだ。

だけど時々思うのだ。
生きることを寿ぐよりも、死ぬことを否定しないことで、生きていける明日もあるんじゃないかと。

この文章を今日公開するのは、書いてる途中でふと、そう思ったから。

死にたいだらけの今日だけど、明日もなんとか、息をしていけるといいなと、そうも思うよ。

おやすみなさい。

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