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終了が近い網走の2つのイベントをご紹介!

網走市内で、2つの注目のイベントが開催中だ。網走市立美術館では「国産牛100% 冨田美穂展」、網走市立郷土博物館では「網走の1964・東京オリンピックの頃」である。先日、両方のイベントに足を運べたので、ご紹介したい。

「冨田美穂展」

冨田美穂(とみた・みほ)さんは1979年東京都生まれ。2004年に武蔵野美術大学造形学部油絵学科版画コースを卒業。牛の木版画と絵画を中心に活動されていて、2008年からは、中標津町の佐伯農場荒川版画美術館で作品の夏季常設展が開かれている。また、2012年1月号から一般社団法人 ジェネティクス北海道の機関紙「sire」の表紙を手がけている。
2015年には網走市立美術館で「ミニミニセブン 冨田美穂ー牛・ウシ・うしー」と題した作品展が開催されており、当美術館では6年ぶり2度目の作品展となる。

木版画の牛の迫力に圧倒される
「国産牛100% 冨田美穂展」は、館内で一番広い第2展示室が使われている。フラッシュを使わなければ写真撮影可能という展示会で、私が訪れた時には熱心に1つ1つ撮影しているカップルがいた。
まず、入って目を惹くのが巨大な牛の木版画。

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ほぼ等身大? の牛が描かれていて、その迫力に圧倒される。精緻な木版画は、牛の息遣いをも捉えているように感じる。ホルスタインの白と黒のカラーは地味な印象だが、木版画で描くことでリアルさが強く現れている。

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表情を正面から捉えた作品。牛のつぶらな目が印象的だ。

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サイズが小さな作品では、木版画以外の手法を用いた鮮やかなものもある。こちらはシルクスクリーンを用いたもの。アングルが面白い。

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銅版画エッチングでの牛の横顔を描いた作品。

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「真冬の白ちゃん」と題されたこの作品は、水性木版画による今年の作品。

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年賀状サイズの作品も展示されていた。

これらの作品は、ごく一部で、もっと牛の魅力にハマりたい方は、ぜひ網走市立美術館に足を運んでいただきたい。会期は3月28日までと終わりが間近なので、お忘れなく。

茂木怜成展が同時開催
館内の第1展示室では、茂木怜成(もてき・れいな)展が同時開催されている。茂木さんは1996年東京都生まれで、1998年に札幌市へ転居。2019年札幌大谷大学卒業。在学中の2015年から毎年、道展に出品している。現在は北見柏葉高等学校で美術教諭として後進の指導と、作家活動を続けられている。

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茂木さんの自画像。

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印象に残った「今の空」という油彩画の作品。昨年の作品だから、北見の空だろうか。外を眺める黒猫が愛おしい。

茂木怜成展も3月28日まで。新鋭の感性豊かな作品にもぜひ触れていただきたい。

常設展にも注目を

第3展示室では「網美コレクション」、第4展示室では「居串佳一の世界」が開かれている。

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この2つは常設展で、写真撮影は禁止となっている。居串佳一(いぐし・かいち)氏は、1911年常呂郡野付牛村相内(現・北見市)生まれ。1919年に網走町大字北見町(現・網走市)に転居。幼い頃から絵画に興味を持ち、旧制網走中学校(現・網走南ヶ丘高等学校)在学中、美術部『白洋画会』に参加し、校内外で作品を発表していた。
卒業後、一時測候所に勤めたが、両親の理解を得て画業に専念し、1930年に道展初入選。戦時中は従軍画家としての活動を余儀なくされる時期もあったが、敗戦後は網走に戻り5年間故郷の風物を描きながら暮らした。その後上京して再起をかけていたが、1955年札幌で急逝。44歳の若さだった。

前回訪れた時とは展示されている作品が変わっており、時々所蔵している作品を入れ替えていると思われる。居串氏の作品が市民から寄贈されたことで開館の運びとなった網走市立美術館には、遺族から贈られたデッサンやスケッチを含め、現在477点が収蔵されているそうだ。
居串氏の作品は、オホーツクの風土や人々の生活の様子を感覚的、叙情的に捉えていて、「氷上漁業」(1936年)は、その代表的な作品とされている。1941年に描かれ、居串氏の最高傑作ともいわれる「北方に生く」は厳しい自然の中で生きる北方民族の生活が写実的に描かれている。
常設展は「前にも来たから観なくてもいいかな」となりがちだが、新たな作品に触れられる可能性もあり、足を向けていただきたい。

「網走の1964・東京オリンピックの頃」

一方、網走市立郷土博物館で開催中なのが「網走の1964・東京オリンピックの頃」と題された特別企画展。

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東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の頃の網走の街並みや出来事などを振り返る特別展で、1階の特別展示室で観ることができる。

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まず、目を惹くのが1964年当時の網走市街地の地図。私が高校時代まで住んでいた実家も記載されている。

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今では1つも残っていない映画館は、当時4つもあった(私の実家の近くにあった成人向け映画専門のカブキ座を含めれば5つ)。東映は、後のオホーツク劇場だ。「ポセイドン・アドベンチャー」などを観た思い出がある。

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どこにあったのか記憶が定かでなかった「網走植物園」も場所を確認できた。網走駅前の橋を渡ってすぐのところにあった。

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網走新聞など、当時の新聞も展示されていて、詳しく知ることができる。とにかく、この地図だけでもしばらく観ていられるくらい面白い。

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この年の10月、函館〜網走間に特急おおとりが走り始めた。青函連絡船に接続し、利用客も多かったが、1988年3月の同連絡船廃止と同時に特急オホーツクに吸収され、函館と網走を直接つなぐ列車は姿を消した。当時の時刻表や席種標など貴重な資料も展示されている。

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大相撲の夏巡業で網走場所が開催されたのもこの年。大鵬や柏戸の勇姿に大いに沸いたという。

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1940年(昭和15年)に初土俵を踏み、34歳で関脇に就き、速攻相撲が得意で「白い稲妻」の愛称で親しまれた北ノ洋(きたのなだ)は、網走出身の力士。1962年まで現役を務め、引退後は武隈親方を襲名。退職後はNHKで本名の緒方昇として、解説者を務めた。

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網走市営球場で行われたプロレス国際大試合。ジャイアント馬場や大木金太郎、ザ・マミーなどが出場した。「市民会館建設資金協賛」というサブタイトル付き。リングサイドは当日1,500円だったようだ。開業当時の超特急「ひかり」1等車の料金(運賃・特急料金)が、東京〜新大阪間で5,030円だったことと比較しても、結構いい値段だった。

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当時の網走新聞の番組表。上の大きなほうがラジオ欄で、下が「きょうのテレビ」とあるようにテレビ欄。まだラジオが主力の時代だった。

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5月に札幌テレビ放送(STV)の網走局と北見局が同時に開局した。

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「北島三郎ショウ」が昼夜3回公演で、市内の映画館を会場に開かれたようだ。

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当時の折り込みチラシもあった。今でいえばしまむらのような店だった「たからや」は、広告のセンスも光っていた。1日ごとにちょっとしたコメントをつけるあたり、現代のファッション雑誌に通じるものがある。

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当時からここに店を構えているフジヤ書店のあたりの写真。

こんなふうに、豊富な写真や資料で1964年当時の網走を知ることができる。また、この機会に郷土博物館の常設展示もじっくり見学したい。

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アイヌ民族に関するものをはじめ、網走周辺から出土した土器、生息する動物などを観ることができる。
また、明治以降最近までの暮らしを伝える資料も展示されている。

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赤電話自体が懐かしいが、それ以上に台の広告「流氷の天使クリオネ オホーツク水族館」が貴重。2002年に閉館したオホーツク水族館は、流氷館が後継施設として人気を博しているが、近年の水族館開発ブームを見ると、もし今も存在していたら⋯⋯と惜しい気持ちが強い。

「網走の1964・東京オリンピックの頃」の会期は3月31日までと終了が近づいている。この週末にでも、美術館と郷土博物館をハシゴして楽しむのはいかがだろうか。

地元網走に帰ってきて5年半経ちました。元競馬専門紙編集部員。サッカーや野球、冬はカーリングなどスポーツ観戦が好き。もちろん、競馬も話題にしています。時事ネタや網走周辺の話題なども取り上げます。よろしければ、サポートもお願いいたします。