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5月雑感

本書で紹介してきたパンクスは、社会的規範やそれを支える政治的・経済的実践とは別の代替案を自身で作り上げてきた。その核にはジン『Punk Planet』の創始者、ダニエル・シンカーがいうように、パンクとは常に問い、それについて行動を起こすことがあるのだ。パンクスはギターを手に取り「なぜ私にはこれが弾けないのか」と考え、キーボードを前に「なぜ自分の意見が通らないのか」を思い、自分の周りをみて「なぜ物事はこれほどまでめちゃくちゃなのか」と問う。そして、「なぜ自分たちは、このことについて何もしないのか」を振り返るのである。

『パンクの系譜学』(川上幸之介=著 書肆侃侃房=刊)より抜粋


みなさん、こんにちは!
コメント欄のコメ愛、ありがとうございます。
5月は4月に書けなかったぶんも含めて書かせていただいていて、
かつて毎日アップしていた頃のことを思い出しながら書いていましたが、
毎日書くよさってやっぱりありますですね。

このみれいらんちは、メモ状態というか、スケッチみたいな状態でそのままアップしているのですが、わっちじしんも書きながら、だんだんと輪郭を掴んでいく、というようなところがあります。そうしてコメント欄を拝読しながら、また輪郭がよりはっきりしてきたり、色が見えてきたりする、、という感覚です。

発達凹凸に対する自分の観察だったり実践だったり、体感とともに、チャクラのこと、編集講座のこと、などを振り返ってきましたが、本当に、ここへきて、何か自分や世界を観察する解像度のようなものがここへきてグググっとあがってきたなと感じています。

たとえばなんですが、先日も、わっちの民謡の先生でトランスワークを伝えてくれている井上博斗氏が、誕生日の話をしていて。
mmbooksは、なぜか双子座の人がすごく多くて、誕生日会ラッシュなんですが、こないだ博斗くんは、みんないっせいに、31日に歳をとる、というのでいいのではないかといっていたんですね。

これが月のことをいっているのか(多分そうだと思いますが)、年のことをいっているのか(つまり大晦日に一斉に年を取るということかな??)、あるいは両方なのかわかりませんが、かつての日本人は、誕生日をこんなにいちいち祝っていなかったみたいな(違ってたらごめん)、、そんな話をしてくれてハッとしたんですね。

わっち、
「ハッピーバースデーツーユー🎶」って歌ってるなって、、。

これってどうなのと、、、(しかも昨夜も歌ったばかりですが)。
もちろん、お一人お一人を祝う気持ちはそのままに、、ですが!!

日本の今の成り立ちを鑑みても、1945年に終戦・敗戦をしているわけです。
そうして、わっちじしん、生まれた時から、テレビがあって、コマーシャルがガンガン流れている中で育って、そうして、なんか「英語」とか、欧米の言語を「かっこいい」とか「進んでる」ってどこかで思って育ってきています。

Tシャツとかトレーナーとかにも英語のロゴが入ってたりします。
(最近では韓国語のロゴTとかも見かけるようになりましたがね!)

かつて、某大手の出版社の人に、「服部(呼び捨て)、日本人は、英語がコンプレックスだから、英語の本は売れるよ。企画を出すなら英語に関する本の企画出してよ」といわれていたことを思い出したり(ちなみに、コンプレックスを的にした企画はもう一つあって、それはダイエットだっていわれてました。わっちはその2つとも思いつくことができず、、というか興味がまるでなくて企画書を出したことはありませんでしたが、、。そういう意味で一般的な売れっ子編集者じゃないんですが、今となっては、「そういう本」の企画をどうしても出せなかった自分っていうのがいいなとも思っています)。

こういった、すっかり欧米化にどっぷりの自分という存在に対する、壮大ない違和感が、もうここしばらくすごくてですね、、、まあ、負けた国なんだから、勝った国に吸収されて、その歴史が加わっていくというのは、もう、この世界の定めなのかもしれませんが(歴史は本当に勝者の歴史ばかり、勝者の視点からの歴史ばかりが記録されていくという事実も含めて)、ちょっと待てよと。

日本で初回される映画だって、全体の映画の総数とは関係なしに、どうしたって欧米のものがガンガン配給されていくわけで、それをあまりに当たり前に思っている(インド映画が、シネックスでガンガンかかったりしないですもんね)。

いや、自分が好きだった・好きな「洋楽」にしたって、「洋楽」ですもんね、、、パンクロックにしたってオルタナティブロックにしたって、リズム&ブルースにしたって、どうでしょうか、欧米経由のものである。

ここ数年になって、ようやくエチオピアンジャズ、とか、チベットの音楽、とか、そういうものを受け取りやすくはなったものの、やっぱりどうして、自分たちの暮らしというのは、英語をはじめとした欧米のカルチャーにどっぷり浸かっているなと思うわけです。しかも何度もいいますが、それらをどっか「かっこいいなー」みたいに思い込んでる自分がいる。

で! ハッピーバースデーツーユー問題なのですが!
そこで、祝い唄の登場なわけです。

【郡上の風土唄・覧】祝い唄「伊勢音頭」


まだ今練習中でして、昨夜の誕生日会はまだ「ハッピバースデーツーユー🎶」だったのですが、自信がついてきたら、「ハアヨーーーー伊勢ーーめでたーー」というふうに、祝い唄に変わっていくかなと(現在移行中です)。

いや、普段、わっちが触れている音楽は、欧米のものが多いですし、このブログだって、「デフォルトで」とかなんとかいっちゃってからに、カタカナ多用してますし、服は洋装だし、トイレも洋式だし、フォークとナイフ使ったりもするし、(おまけに「やっぱりカトラリーはクリストフルや!」といってみたりもするし)もう、自分に染みついちゃっている、あえて過激にいうならば、ばっきばきに西欧化の洗脳が完全に完了した状態になっているんであります。もちろん、めっちゃ、そこから恩恵を受けてもいます。たのしんでもいる。

なんならパンク的な文脈で、オルタナティブな文化をだどっていった先に、日本古来から伝わるものだったり、自分のルーツだったり、地方、辺境、田舎、そういったところにめっちゃ色濃く横わっていたとんでもない魅力だったり、すばらしい力であったり、叡智だったりに、ようやくきづきはじめたといってもいいかもしれないんです。

だから、すべてよし、には違いないのですが、、、。


いや、自分、めっちゃチャラかったな、と。

何もわかっていなかった。

本当に自分の近くに、自分の手元に、何なら自分の中に、すばらしいものが眠っていたのに、まんまと教育をまじめに受けて、「いい」とされるレールに、自分から進んで乗っかっていった。「外側へ」「外側へ」と向けられる力に素直に乗っかっていき、「外にあるもの」「ブラウン管の中にあるもの」がすばらしいと本当に思っていってしまったんですね。

ただ、そうしていくうちに、自分から苦しくなって(!)はみ出して行った、、、と、、、、。

なんかそういう道筋みたいなものが、ここへきてさらに、ありありと感ぜられてきましてですね、さあ、これはどこから手をつけようか、まずは、ハッピーバースデーツーユーからなのか、とか、そういうことを考えているわけです。

いや、今のこの世界のありかたからして、個人というものが、社会や国や世界という枠組みの影響を受けることは致し方がない、とも思っています。

ただ、人間というものには、自己治癒力を兼ね備えているすごいからだであったり、考える脳、そして感じるこころというものがあってですね、、、マーマー的にいったらチャクラというものもあってですね、、、、これらをフル活用して、システムというものから受けている不具合みたいなものを、しっかり自律的に調整する必要があるだろうと。何なら自分で守ったり、自衛したりということが、すごく必要だなと思うわけです。口開けて、インスタのタイムライン追ってる場合じゃないというか。あれもこれも本気にしてまに受けている場合じゃないというか。

突然ですが、どうしてもずっと書きたかったことを書いてみようと思います。
声のメルマガとか、ひょっとしたらこのブログでも書いているかもなのですが、
それは、「ので問題」です。

わっちは、今から、6、7年くらい前からしみじみと感じていたのですが、主にテレビなどを見ている層のかたたちがやたらと、「ーーですので」「ーーですので」と、何か会話するたびに、メールするたびに「のでのでのでので」いっていることにきづいたんですね。「じゃないですか」くらいに人気になっている。あるいは「されてください」くらいに一般的になっている。

この「ので」を多用する奥底にどんな気持ちがあるのかということをずっと観察し続けているのですが、それは、やはりエクスキューズ、、言い訳というか、相手に有無を言わせない、でも、慎重にことを進めている、コンプライアンスに引っかからないよう予防線を張っている(無意識に)、ということなのかなと思うんですね。「ーーーーので」っていうと、相手はもう何もいえない、いう隙を与えないということが、意識的・無意識的に関わらず、潜在的にとりおこなわれていることかなあと感じています。それだけ、一回一回、ピタッと、いい切ってしまわないといけなくなっているというか。「ーーので」というと瞬間的に正論になるというか。ある強さをもつように感じています。それだけ、個人個人が、強さを発揮していかないとならないのかなと。こんなことは、国語の専門家の方ともお話ししてみたいですが!

いずれにしても、自然発生的に起こっていることかなと思うんですが、3年前ほどに、岐阜の超絶山奥の旅館に宿泊した折にも、なかいさんが、「こちら、お椀ですので。キノコを使っておりますので。お醤油はこちらになっておりますので」と超絶「のでので星人」になっていた時には、目を見開いてしまいました。

「じゃないですか」あるいは「されてください」くらい、日本語はどんどん変質していくものだと思いますし、何度もいいますが、自分とて、コンプライアンスだの、エクスキューズだの、カタカナ語をつかいまくっているわけだし、もう、「そういう世の中」にどっぷり浸かっていますので、、、、ので、、、なのですが、、、からの、、、「ハッピーバースデーツーユー」問題なのでありまして、まあ、アフリカのブンジュ村の方達が、日本の縄文のマナーで暮らしていたということが判明するほどの時代なのだから、こっちでは「ハッピーバースデー」でもいいのかも? しれないですけれど、(本当に?) それでも、やはり、この世界の情勢を鑑みるに、できる限りではあるのですが、また単なる趣味かもしれないんだけど、もっともっと明晰性を高めていきたい、何なら幻想から目覚めていたい、という欲求にかられるのであります。

年を重ねてきてムツカシクなってきただけ??かもしれないですがね。いひひ。

先日も、旅先で、普段テレビないから珍しくて、ほんの少しだけテレビを見たのですが、あるピアニストの方が、病に倒れられて、でも病室にまでカメラが入って、「うーーーん」、、これは必要な情報だろうか、、ご本人にとっても、関係者さんにとっても、ファンにとっても、この映像は本当に伝える必要のあるものだったのか、、、とわっちは思ったほうです(すごくお綺麗でしたけれども! でも、最後、モーツアルトを弾こうとしているところとか、必要だったのかどうか、、??? もう、薬で意識が朦朧とされているご本人のご許諾をどれだけ取れたのかなとか、、、)

違和感って、絶ってみるとわかると思うんです。

わっちは、テレビのない生活を、、、13年くらい続けています。そうすると、テレビを久々見ると、めっちゃ、いろんなことを感じます。「ので」みたいに、テレビを見ている人だけがよく使う言葉のことも気づくことができたり。芸人さんが「うちの『嫁』が」っていったりするのもデフォルトになっていて、すごい先鋭的なバンドをやっていた人までが「嫁」って自然につかっていた時は、ウソデショー!!!と、また白目になってしまったり、、、。

3月中旬から2ヶ月くらいお酒を絶っていたのですが、飲んでいないと、飲んでいる人の様子だったり場だったり、「呑む」、ということがよく感ぜられる。

小麦もそうです。カフェインもそう。
きっと、このネットだったり、携帯だったりも、デジタルデトックスするとわかると思います。携帯を持たない時期が5年くらいあって、その時は誰もが、携帯をする見るのが気になっていました。でも今は自分も携帯チラチラ見てるしね、、、。

本当に、この時代に真の明晰性なんてもてるのかしらん!!とも思いますですね。

で!!!!!

チャクラです。

わたしたちの眼前に現れているのが、そう、
チャクラの知恵なんです。

今日これから、満をじして! 第4チャクラ講座(ハートチャクラの講座)が開かれますが! 凄まじい気づきに溢れていると思います。

第4チャクラ開きすぎの方は、周りの人を助けすぎてしまう。あれこれ請け負すぎてしまう。全部、自分のせいだと思ってしまうみたいなことが起こるようです。そして、周りから感謝されたい!(でもされない)と思っている。

第4チャクラ閉じすぎの方は、とにかく、この世界を斜めに見ています。捻くれていて、見下している。ケッ!と思ってる。アホか!と思っている。舐めている、世の中を、人を。ほっといて!! と思っている。その根底にあるのは「これ以上傷つけないで」というご自身の深い傷だったりする・・・。

第4チャクラ、、これは他者との関係性を表していますから、本当に、この講座はわかりやすいと思います。より社会的というか、より実践的というか。チャクラは中庸である状態(開いたり閉じたり、回転を程よくしている状態)を目指すわけですが、そこも目指しやすいというか、ケアの結果がわかりやすいと、講師のkaiさん、いっておられました。

わっち自身は、どう考えても開きすぎで、、(若い時は、閉じすぎも凄かった)
これらがわちゃわちゃに陰陽転化してたと思うのですが(陰陽転化はもっともひどいやつ)、誰かを助けることで自分の存在意義を確かめようとしたり、一方で、この世間に対して、「ケ!」みたいな気持ちをもったりしていました。

そんな中、わっちはリズ・ブルボーさんとお話しさせていただいた頃からでしょうかね、、そして最終的には、このチャクラの知恵を、『kaiのチャクラケアブック』の企画・編集を担当させていただき!


また第2チャクラに関する本『自分を愛する本』を、kaiさんと共に書かせていただき!

おそらく、すごくすごく、自動的にケアされていった部分があるなと感じるんです(何度もゲラを読みますし、何より深い理解をしている必要がありますしね)。

本当に昨日のブログにも書きましたけれど、過剰に「救済すべし!!!」みたいな気持ちが解放されていったんです。いや、今もなくはないです。でも、過剰さは少しは薄らいでいったなと感じます。そして、この世界への信頼感が増していっている。もちろん、ここ数日のブログに書いてきたように、現状を感じ、違和感を感じたことは自分の責任において、対応していく、という姿勢はもっていたいなと思っています。

とにもかくにも! リズ・ブルボーでいうところの、「100%自分の責任として捉える」という姿勢、「人は100%完全である」という視点は、自分にとってはすごくすごくハートチャクラの是正に役立ちました(全チャクラともいえますが)。リズが、「相手がいきなり自分に罵声を浴びせてきても、ただただ自分のハートから相手に光を送るようにする」という方法を教えてくれたときに、自分の何かがカチッと変わったのです。

そして、kaiさんのチャクラの知恵です。第4開きすぎのアイコ、第4閉じすぎのミサ(両方ともチャクラケアブックに掲載されています!)、、、。この二人を通じて、そして、説明を読んでいって、どんどんと理解は深まり、解放されていった、、、。

今日の講座では、さらに、チャクラケアブックからブラッシュアップされて、kaiさんがとても興味深い質問をご用意くださっているのですが、とにかく講座が始まる前と後とでは、チャクラバランス変わるんじゃない?というくらい、ものすごい気づきがあると思います。

わっちが感じていますのは、「日本人女性はおおむね、第4開きすぎで、開き過ぎからのカサンドラ症候群とかになっている。(第2、3は閉じすぎ)。また、同時に、隠れ第4閉じすぎさんもめっちゃ多いな」ということです。今回の講座は、第2、第3に続く、しかし、また別の位相での歴史的な転換点になるぞ、くらいに感じています!

そうそう、第6チャクラの気づきでいうと、昨日のブログと少し重複するかもですが、先日のインスタライブでお話しくださったのが、そもそも第6チャクラというのは、35歳くらいから主に活性化するチャクラだそうで、なのに、子どもの頃、洗脳を受けたり、洗脳みたいなことが起こっていたり、あるいは、すごい情報を詰め込みすぎたりすると、第6チャクラが陰陽転化するようになる、と。それが、発達凹凸で起こっていることなのではないか、、というようなことでした(少し精妙さにかけますが、要点はこんな感じだったと思います)。

これ、すごいことだなと思うんです。

今、こどもたち、めっちゃ詰め込んでいたりしますよね。情報もすごい量です。ちいさい頃から膨大な情報摂取して、、、もっといったら、これは、神田橋條治先生や、発達凹凸の研究をされている方々がはっきりと書いていることですが、農薬や添加物とどうも関係がある、と。実際、第6チャクラの閉じすぎのセルフケアにも、農薬や食品添加物が入っていないものを摂る、という項目があって、、、、(チャクラケアすご!)。

いや、本当に、いろいろな解像度が上がっていますですね!!

同時に、人間がある種の「誤作動」を起こしつつある(軽度発達障がい者が、重度発達障がい者をケアする時代)、それが一般的になっているのかもしれないし、何せ、人口が増えたことで、1人の人間ができることが減っているのかもですし、この瞬間にも、どんどんAIが成長していっていて、AIにできることが増えていく反面、人間のできることがへっていっていたり!!?!(オルダス・ハクスリーのディストピア小説のようだ!)

もうそういう流れなのは、致し方ないのかもしれないですけれど、それでもそんな中で、「自分は果たしてハッピーバースデーツーユー」と呑気に歌っていていいのか、ということだったり、和装についてもっと考えた方がいいなということだったり、和装をすると肚が座り、腰が入りそうだということだったりを、コツコツと考え続けて、実践をしていこうと思っています。

わっちはもう、今、ある意味で「ここんところもう戦中だな」と思っていて、だとしたら、「正しい情報」なんてどこにもないかもしれなくて、信頼できるのは自分の身体性を高めて、その身体を信頼すること、その身体が感じる違和感や心地よさに移居すること、くらいだとすら感じているんですね。あとは、まっとうに、自分の暮らしをつくっていくしかないというか。なんなら半径40センチと楽園にしていくしかない。

今や、経済の幻想みたいなものからもたくさんの人が冷めてきているわけですし(もちろん、自分も経済活動をしながらではあるのですが、、)、兎にも角にも、自分にできることを一つ一つ取り組んでいきたいなと思っています。

そして!
そんな中!

先日、岐阜・八百津に引っ越された、「間と衣(まとい)」さんにお邪魔することができたんですね。


八百津に移転された間と衣さんの玄関。


お一人でDYIされたそうですが、すさまじい美しさでした!!


薪の並べ方にも感動しました!


この古着屋さんはもともとは名古屋・池下にありまして(わっちが通っていた中学校のすぐそば!)、大好きで、伺っていたのですが、とうとう、八百津に移転されたんです。

なんと店主の齋藤さんは、3年かけて?? お店をDYIされていて、床でもなんでもご自身で張られたと、、、それがめっちゃんこ見事だったんですよ!!!!!!!

この「間と衣(まとい)」さんは、いわゆる「ファッション」がはじまる1950年より前の主にフランスの古着(!)を扱うという、すごい古着屋さんなのですが、、(そしてめちゃめちゃかわいいです)この店主の齋藤さんのあり方でしたり、あるいは、マーマーマガジンでお馴染み、服を1着1着手づくりされているiaiの居相くんのあり方であったり、、若い方はすっかり、「ハッピーバースデーツーユー」ではなくて、「祝い唄」のほうへ、めっちゃ、かっこいいやり方でスライドしておられるなと思います。

めっちゃ明晰性が高いなと、、、。

この急激なる解像度の変化だったりは、自分の年齢とかにも関係があるかもしれないし、本当に時代的な背景も大きいと思うのですが、ますますたのしんでいきたいなと思っていますですよ!

最後に、ここのところずっと読んでいた冒頭の本の抜粋をして終わりたいと思います!

(最上部からの続き)

そして、狡猾な知恵に溢れ、整い過ぎた社会に混沌とした空間を取り戻し、社会の隙間を広げ、制度やルールの抜け穴をこじ開け、我々が窒息するのを防いでくれている。そのためにも社会から歯車や道具になることの要請を拒否して、ひとりひとりかけがえのない存在であることを叫んでいるのである。パンクとは今を生きるためだけのものではなく、「未来は僕らの手の中」にあるという希望をも示唆しているのだ。

『パンクの系譜学』(川上幸之介=著 書肆侃侃房=刊)より抜粋


わっちが今取り組んでいる編集講座などは、「狡猾な知恵」の伝授とも思えなくないですが、何より、わっちは受講者の方々に、この講座を通し、編集という実践を重ねることで、的確なメディアリテラシーがつくといいなと思っています。

最悪、その手法に悪魔的な方法が混ざっていたとして、その「手口」を知ることは、よりよく情報を選択するためにとても有用だと感じるからです。

チャクラケアは、チャクラがどうとか云々とかが今わからなくても、必ずや、たくさんの人にとってものすごく腑に落ちる知恵だと感じます。なんだかわからなかったものに名前がついて、そこに意味がついて、ケアの方法が明示されている。
「なるほどー!」ってなります。これぞ、人間ができるすばらしい能力かなと。ここからはじまる自己治癒、進化、解放の可能性がすさまじいです。

混沌とした世界を、自分なりに、どこまでもできる限り曇りなき思いを尽くして、編集するということを続けていきたいなと思っています!




岐阜・高山にて。顔はめの時代ももうなくなるんでしょうかね、、、。



上高地にて。


みなさんの5月はいかがでしたか?
またぜひコメント欄でお話しくださいませね!(全部にレスできていないですが、ここでのおしゃべりたのしみにしています!)

さあ、そろそろ、第4チャクラ講座の会場へ向かいたいと思いますよ!!

今日もご購読ありがとうございました!!!!




服部みれい、

ど、


え、


した!






チャオにももちろんミサだった時代はある


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