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6月雑感|第4チャクラ講座アフタートーク2

われわれに精神というモノが与えられ、許されているからには、そして、その精神こそ無限の世界であり、神そのものであるからには、われわれがよくいのり、よく念(おも)えば、できないことはないはずであります。

『宇宙の秩序 ー自然・人間・精神・社会を貫く法則ーー』(桜沢如一=著 日本CI協会=刊)より抜粋


みなさん、こんにちは!
えええええ、、、、もういいよ、いいかげんしつこい、、
そんな声がやってきそうなところ、
また、このホール、
いや、らんちに戻ってきて、
ひとり語りをはじめるみれいです(ヒロシです、の発音で、、チャラリー🎵)。

第4チャクラ講座の余韻が止まらない日曜日ですけれど、そうなんです!
6月のみれいサロンは、チャクラ本の読書会でございまして!!

6月5日(水)19時より!!


リアルでも、みなさん、各地で、
読書会を行なってくださっているようなのですが!(アリガトウゴザイマス!!)
上記2冊の本の感想だったりをシェアする会です。

いつものように「かぶりつき席」はないのですが、
みなさんにどんどんお話しいただきたいなと思っていまして、
ぜひ、いつでも「声だけの出演」「顔を出しての出演」できますように
ご準備しつつ、ジョインアスしていただけたらと思っています。

こちらの締切が、6月3日(月)明日です!
みなさんのご意見だったりご感想を聞くことで、
また、気づきがあるかもしれません。
ぜひチェックしてくださいませね!

さて、これらチャクラ本の著者であるkaiさんが、インスタライブでご紹介くださったこの本を読み始めました!

宮地尚子さんの『傷を愛せるか』(ちくま文庫)です。

帯文には、「弱いまま 強くあるということ」とあります。

この本に収録されている、今朝読んだばかりのエッセイに、「内なる海」というものがありまして、映画『海を飛ぶ夢』のお話が出てきました。

この映画のことを書かれたエッセイに、映画に登場する、ロサ、という女性のお話が出てくるんですね。

ロサは、死にたいと願うラモン(26年間寝たきりの生活を続けた後、尊厳死を求めるようになった人物)に、「生きていてほしい」という。だがやがて、ロサは気持ちを変えていき、ラモンを愛しているからこそ、その願いを叶えたいと、「愛しているから、あなたが死にたいと思うなら、それを手伝うわ」と、ラモンの願いを受け入れて手伝っていったというのです。

(わっちはこの映画を見ていなくて、このエッセイを読んだだけで書いていまして、微妙なニュアンスが万が一違っていたらごめんなさい!)

著者の宮地さんは、精神科医として、職業柄、「死にたい」と願うクライアントに向き合うことが多い立場にあるわけです。そして、もちろん、「死なないでほしい」ということを伝え、生きることへの希望を見出してもらう方向に働きかけておられる。そんなご自身が、このロサをどう見て、どう感じたかが、、、いやーーー、、、このエッセイのすばらしいところなのですが、、、。


今回、第4チャクラ講座でお話しした、非常に霊性の高い能力者の先生2人のある共通点についてお話ししました。

きっとあの講座の話のながれの中、みなさん理解してくださったとは思いますが、少しだけ付記させていただくと、

本当にあの、kaiさんがお話くださった、2つの愛の交差する場所、あの2つの愛の中庸に立てたなら、ある意味では、この「ロサ」的な態度も含む、ものすごい膨大な愛に支えられたことばがけ、あるいは、愛で包むということが可能なんだということを伝えたかったし、伝えられていたらうれしいです、ということなのです。

わっちは、ある種の希死念慮というのも、病のある出方、心身のバランスの不具合、冷えとりで行ったら「冷え」が強い状態、チャクラで行ったらチャクラバランスの激しい乱れ、そういった、本当にバランスが崩れている、ということかなと理解しています。だから、思いはそのままにしながら、心身特に、からだをあたためたり、思いを吐露したり、その時々でできることを淡々と続けるといいのかなと思っています。

わっちは、あの2人の先生方のような態度を取ることはできないけれど、kaiさんがお話ししてくださった2つの愛の説明が本当にわかりやすくて、その2つに裏打ちされた人間の存在、その存在から放たれることば、そのことばの愛の深さ、、それを今回すごくあらためて思ったしだいです。

きっと、どの愛も本当にすばらしくて、ケアする側、子育てする側、セラピーする側、それぞれの愛のかたちはあって、それもがすばらしいんだと思いますが(間違いはないというか)、そのそれぞれがさらに、中庸を目指して、深みを増して行ったら、すごいことが起こりそうとももちろん思っています。

しかも、ずっとずっと感じていることですが、ケアする側、子育てする側、セラピーする側、ご自身がご自身へ向ける愛、これがまず根底にないと、やっぱり、どこか歪んでいってしまうのかな、、、行き止まりになる時が来るというか、、。

変な上下関係ができたり、「役割」に縛られたり、時には愛みたいなものから遠ざかってしまったりしていると、循環ができなくなっていってしまうというか。

愛、ということばにピンとこないとか、抵抗があるとか、わからないという方は
「やさしさ」で置き換えてみても、ほぼ同義かもしれないです!
(これもわっちの見解で、またkaiさんは違うご意見があるかもしれないですが)

わっちは、発達凹凸のこと、また編集ということに向き合う日々の中、ほんとうにこの「愛」、簡単にいえば「やさしさ」ということの交換が、ますますたいせつになっていると感じています。

「軽度発達障がい者が重度発達障がい者をケアする世の中」になっているのだとしたら、逆にこの状況を逆手に取るというか、発想を転換してですね、本当に、本当に、誰にとってもやさしい世界、調和した世界をつくる大チャンスにしていくしかない。あるいは、本当にそういう皇(オウ)的な世界に向かっているのかなと思います。


(はっ! ちなみにですが、わっちの40センチは、めっちゃ皇(オウ)です!(もう少し広いかも、、、一メートルくらい!!?!?))

もう、どうしようもなく、この世界が変わって行っている真っ最中なのだとしたら、やっぱりわっちは、「まずは自分から」(身勝手な利己主義ではなくて、全方位に関連する「自分をたいせつにする方法」として)、、という思いを強くしています。

自分への愛をしっかり配れる状態になったら、必ず自分というコップから愛が溢れて、そうして、他者とも愛を交換できるようになりますよね(第4チャクラの働き)。

そのベースに第2チャクラ(あるがままの自分を受け入れる)があるというのも本当にうなりまくりの話です。


わっちは、本当にあの2人の先生の域には到底達していないですし、何の専門家でもないけれども、自分自身、本当に消えてしまいたいと思っていた時期があってあの時の底なしのしんどさを体験した一人としての意見にすぎないのですが、

今、もし、もうどうしようもない袋小路の中に自分がいて、もう消えてしまいたいと思っていたとして、でも、そんな時でも、どんな暴風雨が吹き荒れていても、自分の奥にある、うつくしい泉は生き生きと生きていて、そうして自分という存在を生かしている。そして、自分の存在以外のものが、自分を生かしている。それは間違いがない、、というふうに思っているということをお伝えしたいなと思います。

どうしようもない時は、もう1日1日息しているだけでいい。誰かの役に立ってるか立ってないかとか、仕事してるとかしてないとか、どうだっていい。過去に何したとか、もどうでもいい。罪悪感も何も全部本当は幻なんです。

でもそれにどうしようもなく囚われてしまっている時でさえ、本当に、ただこうして「在る」ということには何か意味があって、何かその場に置かれている、その土地に選ばれて、エネルギーとしてそこにいるということに意味があるということも、わっちは真実だなと感じています。

全員でバランスしている何かがある。
みんなでひとつのいのちを生きているんだと感じています。

そんな時は、ただただ、息をして、そうして、できることでエネルギーをためるしかないと思っています。

そうしてね! これはケアする側のお話ですが、

よく、冷えとりで、大事に思っている人で病にふしている人が冷えとりをしない、という場合(まあ、よくあること)、その人の分まで自分が温める、という方法があります。

また、先日も、うちの犬さんの具合が悪い時、うちの犬さんを目的にして、夫の福太郎さんが、犬さんの分をひまし湯湿布していました。

わっちも、タッピングの遠隔(これは女性だけができると言われています)を、代理タッピングという形ですることがあります。


目に見えない世界を信じない人にはわからない話かもしれないけれど(スルーしてくださいませねー!)、上記のようなことって、「祈り」だと思うんですね。

行動としての祈り。。。わっちは、ある本を書いた時、「祈りとしての仕事をする」「仕事自体が祈りなのだ」と書いたら、担当編集の人にわかりづらい、といわれて、その文章を削除することになってしまい、今となっては、やや後悔しているのですが、もう、今や、このような世界になった中、修道女でも、寺娘でもないけれど、でも、日々の自分の仕事を祈りとして行うしかないというふうにも思っています。祈りとする、ということしかもう残されていないというか。

そして、仕事=祈りとならずとも、人間には、本当に祈るということが残されている。

祈りは、すごい力を発揮します。祈りは、必ず伝わるしすごい力がある。

そして自分へ向けた愛は、かならずや、たくさんの人への愛につながっている。

何もできないと思ってからでも、祈ることはできる。

みんなでひとつの命を生きている人間には
すごい可能性がまだまだ残されているんです。
まだまだ使っていない能力がたくさんある。

そんなことも、今朝は感じながら半身浴していました。

最後に、また上記の抜粋の続きで終わりたいと思います!


また、有限の世界、物質の世界、形ある世界、見える世界(中略)がある以上は、それしか見えない人々、それしか見ないような人々があってもいいワケです。

そんな人々こそ、この有限、物質、栄枯盛衰、会者常離の世界のホントーの市民であって、無限の世界をその上に、その前後周囲に見とめる人々(原文ママ)は、実はこの有限の世界のお客さん、観光客、寄留民、外人、異邦人なのです。だから、有限の世界の国籍をもち、その国を守り固め経営している人々ーー宿生市民ーーに対して何の抗議をもする資格はありません。

ただ、彼らの後から黙々とついて行けばよいのです。そして彼らが何かむつかしい問題に出会ったり、危険に陥ったり、行きつまったり、疲れたり、倒れたりしたとき、(有限の世界は行きつまりの世界、袋小路ですから、キット行きつまります。有限の力の世界では必ず「疲れ」というおもしろい現象や、おしまいのシルシ『・』があります)

そこへ来たとき初めて、いそいで近より助けおこし、苦しいセマイ有限の世界から無限の世界へ抱いてかつぎこめばよいのです。それまでは自分が無限の世界の市民権、精神、神の相続者、代表者である資格を失われないように、ひたすら自分をいましめておればよいのです。つまり、自分の無尽蔵の幸福の鉱脈をますます掘り下げておくことです。

『宇宙の秩序 ー自然・人間・精神・社会を貫く法則ーー』(桜沢如一=著 日本CI協会=刊)より抜粋
改行はみれい


わっちは、上から目線でも下から目線でも全くなく、フラットに、「どうして、このことの真実がわからないのだろう」とか、「どうして、(ある種の人々は)こんなに人の気持ちがわからないのだろう(共感しないのだろう)」とかたくさん疑問があっのですが、それらは、チャクラの学び、そして、発達凹凸について学ぶ中で、癒されていきました(主に、第6チャクラの学びでそれは深い理解と癒しになりました。「第6チャクラが閉じている」ということで「わからない範囲があるのだ」ということがわかったことに、本当に救われた一人です)

わっち自身、カサンドラ的だったとも思うし、カサンドラだった母親の娘だったと今ならわかります。

そうして、自分がコツコツと続けてきた、編集という行為が、どう自分を癒したかということについても、少しずつわかりはじめています。



、、、、と!!!

何日も続く、5000字ー1万字のブログにお付き合いくださった方々、ありがとうございました!

明日からまた、わっちは、あたらしい仕事がはじまりまして、その合間に、こうして幾つかのことを書くことができて、自分自身、本当によかったです!


コメ愛も本当にうれしかったです!

どうぞどうぞ、すばらしい6月の日々をお過ごしくださいませね!


みれいらんち、どえした!


チャオ!


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