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純粋性について

みなさま、こんにちは!

月末恒例、みれいブログ、日々の暮らしでは柿酢づくりと干し芋づくりによねんがない、服部みれいでございます。いやあーー11月、おしまいですって。くらくらしますね。あせあせもあわあわもしないけれど、どうしたもんかなあと、かるく腕組みという感じ。いやあ、腕組みもごくごく軽い腕組み、けっして真剣にというわけではないんですが、時間の観念というか、感覚が、ほんとうに変わってしまった、という感じがします。これからも空間の感覚まで変わってしまうんですかねえ。どうなんでしょうか。

さて! 昨日は表現について書かせていただきました。コメント欄にもお書き込みありがとうございます。そうですそうです、みなさんがコメントしてくださった感じです。そういった純粋性にますますスポットがあたりそうだなって思うんですよね。

純粋性といえば、こう、岐阜の美濃という山あいのちいさな町に引っ越してきたメリットというかよかったこと、いっぱいいっぱい、いっぱーーーーーーーーいあるのですけれども、純粋性、ということばは、ひとつ、この土に近い場所での暮らしのたいせつなキーワードかなと思います。

まず、情報やモノが、東京の都心部での暮らしに比べると、超絶に少ない生活におのずとなります。そうするとね、なんだろ、ものすごーーーく引き算された自分が存在するようになるというか、、。食事で例えると、ものすごーーーくおなかのすいた自分がいるようになるわけです。

で、前だったら、フレンチのフルコース食べても「なかなかおいしいです」(クールな顔つきで)と冷静だった自分が、おなかがぺこぺこでご馳走食べたことなんてもう3年もない状態で食べると「ふんぎゃーーー◎♡$%#&☆0#"=%>@*======!!!!!」となる、みたいな感じといったらいいでしょうか。

ほんのいっぱいのコーヒー、一皿のおいしいカレーライスでも、ほんとうに、しみじみ、ありがたく、ひと口ひと口がおいしいわけです。純粋性が発露される自分自身になっている、というか。だから、お店やモノやなにか情報や人とであうと、「わああああああああ(キラキラキラキララーーーーン)」と、とってもときめいて、感謝の気持ちが溢れる、そんな自分に以前よりずいぶんなっているなと感じます。自然ならなおさらです。

もちろん、土地じたい、土地に住む人々、モノ、そういったものもとっても純粋です。それはやはり自然とともにある暮らし、というのがあると思う。この純粋さは、純粋に、自分のこころやからだの滋養になる気がします。

何かね、エコロジー、とか、田舎暮らしー、とか、ローカリティーとか、そういう切り口ももちろんわかるし、そういうったムーブメントというか、時代のおおきな流れのなかに、わっちもいるんだと思うのですけれども、もっとなんだろうな、純粋性みたいなものの価値を、ひとびとがもっともっとわかるようになるんじゃないか。あるいは欲するんじゃないか。もっともっと暮らしやなにかの上位になるんじゃないか。そんなふうに感じたりしているのです。そういったことへのあらたな視座がうまれつつあるというか。

伝わりますですかねえ。

あるいはこんなこと考えているの、わっちだけかもしれないんですが。

なんというか、純粋性への感度こそ、ますます上げていきたい、というふうに感じるのです。そしてその感性をあげるっていうのは、ぜんぜんむずかしいことじゃなくて、無邪気でいるとか、固定概念から自由であるとか、真剣にならないとか、なにかそういうことの中にあるようなないような……。

あとは、どこか、シンプルさみたいなことも必要なんですかね。

と!

そんな純粋性をひしひしと感じる場や時が、最近もありまして!

じゃん!


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こちら、発酵でおなじみ小倉ヒラクさんによる岐阜でのツアーの一部に参加させていただいたのですね。

上記写真は、郡上での昼食の様子です。郡上のみそ煮、なれ寿司、乳豆腐の煮つけ(初乳でしかつくれない、酪農をされているかたしか食べられないカッテージチーズのようなもの。これをお醤油で煮たもの)、かまどご飯、ほか、地元のものがずらり並びました。そうして、お膳がずらーーーっと並んだお座敷で、食べるのですが、いやあああああ、日本酒もふるまわれたから余計に、かもしれないんですが、むちゃくちゃ、こう、純粋性が喚起される場と時というか、たまらない体験でした。

むちゃくちゃリラックスできて、ゆるんで、じんわりおいしくて、なんだろなー、おはなしもたのしくて、、そんなこんなしていたら、後藤直弘さんや保存会のみなさんによる郡上節、民謡がはじまり、踊りもはじまって、もう最後はなにいってもおかしいみたいに笑ってばかりいる、、みたいな感じです。

岐阜県郡上市に高鷲という土地があって、その高鷲の郷土料理新聞のお手伝いをさせていただいているのですが、編集長のしほさんのご実家にあそびにいったときも、同じ感覚になったんですよね。

リラックスできて、ゆるんで、じんわりおいしくて、おはなしがおもしろくて、最後はもう、げらげらただ笑ってばかりいるという。高鷲郷土料理新聞の撮影のときも、終始そういうムードです。

あれ、なんだろ。

すごく独特な体験なんです。

山の水のせいなのかなんなのか。最後、笑いにいく感じが、、ふしぎなんですよね。もちろん、田舎万歳! という単純な話じゃないんです。そういうことがいいたいのではなくて、あの独特の陽気さの体験、無邪気になる感覚、ゆるむ体感、純粋性が高い感じ、、、に、勝手にですが、縄文フレーバーを感じるし、あの時と空間の重なりがあったら、人って幸福なんじゃないかなということなんですよね。

すごく単純なのです。

ずっとずっと、人は、いろいろなことを複雑にしすぎてしまって、それもとってもたのしい娯楽でありアトラクションだったのかもだけれど、もっと純粋に純粋性を味わってその中に没入できたら、どんなに、安心で、素の自分でいられて、楽だろうっておもうんですよね。

これまでは複雑な中で、力んでがんばるんば!っていうのもすてきだったんだけれど、どうもこれからはシンプルな中で、ゆるんで、自分のまま、っていう方向をたくさんの方々欲するのではないのかなあと、、、。

郷土料理や民謡や山奥の山水があるような場で語らったりするたびに、「一体これは、、この魅力は、、」となります。

自然の精霊たち、妖精さんたちがたーーーくさんいるからなのかもしれないですね。

そうそう! 

妖精茶会を今年の春分やったときも、同じ感覚になったんですよ。そうだ、妖精というキーワードで考えるとわかりやすいのかも。そういった精霊や妖精といった存在がたくさんいる場っていうのは、何か、人を独特の陽気さと無邪気さと楽さへと導くエネルギーで満ちているのかもしれません。

あとはね、菌とか、その発酵がとても注目されているというのも、そういった目に見えない存在たちが、なかなかどうして、わたしたちの暮らしや、わたしたち自身というのを成り立たせているんだなって、たくさんの人たちが気づき出したからなのかもしれないです。

冒頭でも書きました通り、今年は柿酢、ようやく成功しそうです。今回挑戦2回目なんですが、キッチンの中央に、混ぜ忘れないように置いて、毎日混ぜて眺めてるんですが、、


生きとる!!!!!!!!!!


この人(?)たちと生きとる!!!!!!! というのが、なんだか家族が増えたようでたのしい。発酵しているものが、家のなかにちゃんとあるというのも、ぬか漬けつけてるときもよく思いますが、なんだか場をより整える感じがあります。冬期湛水不耕起栽培でも、生物の多様性をとてもとても大事にしますが(農薬や肥料の代わりに、生物や微生物にしごとをしてもらう)、あの、冬期湛水不耕起栽培の田んぼの豊かさ、、、すごいんですよ、、、本当に、、、。

つまりは、人は、やっぱり、その微生物だとか菌だとか自然霊だとか妖精だとか、ひとくくりにはできないけれど、なんだかわからない目に見えない世界に、本気で支えられているんだなと、こう、本当に体感した6年だったなと思うんです(2015年春に移住しました)。しかもそれも、自分の腸内細菌が徐々に徐々に、都市のそれから、美濃の菌に2年くらいでいれ変わって、より深く理解できるようになったというか。

この体験、この純粋性を味わう体験を、ほんとうに、うれしく、溢れる感謝とともに、ますます重ねていきたいなって思っています。

そして、本当に、なにか目に見えないものに支えられる暮らしの安心感、よろこび、笑えてくる感じ、が、自分には新鮮だし、好みというか、そういうものが好きなのかもしれないです。

本当に、大転換期だからなのか、冬至前だからなのか、いろいろな時勢の影響もあると思うのですけれど、朝カルの講座や、声のメルマガや、編集部に届くお便りを読んでいると、共通した何かがある気がしてなりません。

で、たいへんな大浄化体験中の方もいらっしゃるわけですが、その「今の自分」を超えていくときに、本当に、この、純粋性、無邪気さ、たのしさ、よろこび、溢れる感謝、陽気さ、みたいなものを増やすことが、とてもとても自分を支えてくれるのかな。

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