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△から○時代への続き|構造を壊したくない力がはたらく時に、いち個人がいますぐできること


みなさん、こんにちは!
昨日に引き続き、ブログ形式のみれいらんちです。

この夏のツアー、また美濃でのみれでるせんでお話したことの骨子、
それぞれで違う話をしているため、
全体をまとめたお話、しそびれたなーと感じるお話
などなどを
勝手気ままに、させていただいています。

美濃に帰ってきてからは、
ブックスキューブリックで購入した
店主の大井実さんおすすめの本たち
(庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、夏目漱石『草枕』『私の個人主義』)、
だったり、
けやき通り店で購入した、町田康さんの『私の文学史』を読みまくる日々。

完全に大井実チルドレンになりつつある!?!という感じですけれども、
もう、溜飲が下がりまくり!!!!!!なんです!!!!

いや、大井実さんは、その半生を書かれた
ご著書『ローカルブックストアである福岡ブックスキューブリック』を読んでも、自分と感性が似すぎていて!!! 
影響を受けたものが似ているのか、一体何なのか、
元々転校生だったというところまで似ていて!!! 
いやー、そんな大井さんが推薦される本にハマらないわけがなく、
今、絶賛、漱石ブーム(いまここ)がわっちの中で
沸き起こっているのですが……。

大井実さんという方が福岡の地でなさろうとしていることと、
わっちがマーマーマガジンだったり、本の執筆だったり、
美濃でやろうとしていることは、(猛烈に大雑把に言って)
どこか「ローカル」という視点で共通しているわけですけれども
(オルタナティブとかもありますが)、
その先に、というべきか、その奥に、というべきか、
漱石が課題としていたことが通底しているんだなとあらためて思うんです。

西洋文化の「外圧」から、どう、自分軸をつくっていくかということだったり
(外圧と内圧の相剋)、
拙著で言ったら、
「着ぐるみと着ぐるみを着ている自分との相剋」みたいなことだったりするのですが、
いよいよここへきて、この大混乱期というのは、
そのぎちぎちの相剋、張り詰めた輪ゴム、
そう言ったものから1抜けた!をする大チャンスとも言えるのかもです。

そうです、△から○の話、なんであります。

あくまで仮定ですが(皇の時代の考え方からもヒントを得た仮定ですが)
いよいよ△から○になっていく時代に入ったとして
(古い弥生時代から、ハイパーな縄文時代になっていくとして)
(あるいは、昭和から、最新型の「懐かしい未来」に変わっていくとして)

今、△社会が必死、という側面がある。

「構造」というのは、どうやら、壊れないように、壊れないようにする、という性質があるんですね。

家族なんかを例に取るとわかりやすいですかね。

すごく歪な、機能不全家族だとて、そこに暴力があろうとも、そこに何らかの搾取があろうとも、「構造」というのを、暴力振る方も振るわれる方もガチっと守ろうとする性質があることに、わっちもさすがに気づいてまいりました。

最新号のまぁまぁマガジン25でkaiさんのインタビュー中でも「治りたくない人がいる」という話が出てくるのですが、それもしかり。

つまり「病気である」という自分が、なんだか周りとバランスとっちゃってる。がっちり構造を作っちゃってる。そうするとそこから抜け出せなくなることがあるようなんですね。

病気が治ると、みんながやさしくしてくれなくなるかもしれない
病気が治ると、自分に注目が集まらないかもしれない
病気が治ると、本当に仕事をしはじめなければならない
病気が治ると、自分の才能がダダ漏れになってしまう(才能を発揮することで周りに嫉妬されてしまう|あるいはその才能が出せるタイミングが来るのが怖い)

これらは妄想に過ぎないのですが、わっちたちって、ものすごいこの手の妄想の中で生きていたりするんですよね。幻想と言ってもいい。

本当は

病気が治っても、みんなますますやさしくなる。こっちもやさしくできる。
病気が治っても、注目を集めなくても生きていられる
病気が治っても、仕事をしてもいいししなくてもいい
病気が治ったら、才能はますます発揮できて、たのしい

はずなんだけれど、なかなか周りとの兼ね合い、自分の思い込みで、「治らない」を選んでしまうのかなと(全部が全部そうじゃないけど)。そういうケースもあるかもよ、っていうことです。

助ける側も、その助ける自分というアイデンティティが強固になっていったりして(あくまで一つの例ですが)。「共依存」の根底には、この「役割を果たすことで自分のアイデンティティを満たしてしまっている」という誤解があるような気がします。もちろん誰もが、誰かの役に立ったりして、生きているし、それを決して否定するわけではなく、ただ、「自分」というものがなくなってしまって、「着ぐるみ」を自分だと思ってしまったり、過剰に助けたりということが出てくると、バランスがおかしくなるのかな、と、そういうことです。

で!!!これは「構造」の話の例なのですが、
(そしてものすごくざっくりとお話することをお許しいただきたいのですが)

1、強い人
2、弱い人

この1と2で結構がっちり構造が出来上がっていたりする

1、助ける人
2、助けられる人

と言ってもいいです。
「わたしがいないとこの人が生きていけない」というアレですね。

1、コントロールする人|支配する人
2、コントロールされる人|支配される人

この1と2で社会構造もできていたりもします。これが△社会のかなりベーシックな構造です。

「サラリーマンはぁあぁぁ、気楽な稼業ときたもんだっ」


これですね。
サラリーマン、楽、という話。

kaiさんの第3チャクラ講座(第3チャクラは、自信とか自分軸などを司っているところです)で、このチャクラが弱い人、(とじすぎガール)は、責任を取りたくないから、誰か(大抵はコントロールが強い人)の支配下に入ってしまう、というところが、とても衝撃だった、というご意見が多かったということなのですが、

まさに

△(さんかく)

△(さんかく)

のかたちにしているのは、
上の人の庇護のもと、責任を取りたくないとどこかで思っている、また、責任を自分では取れるような自分ではないと思い込んでいる存在、かもしれない、ということなのです。

(厳しい? 厳しい?)

でも、構造から考えるとそうなのである。

男尊女卑がひどい土地というのは、えばり腐っている男性も男性だが、
そこを支える女性もその構造を強固にしているかもよ、という視座です。
(わっち自身は、女性の側の身体だったり、身体性から、この構造をゆるめていく活動をしている一人と言ったらいいでしょうか)

これがもう、すっかり入れ子状態と言ったらいいか、凹凸がすっかり噛み合ってしまっていると言ったらいいか、ガチガチにある一つの構造になっていて、もう離れられないわけです。

で! それ(△)がたのしい人、それがここちいい人、おもしろい人は、そのままでいいんだけど、「なんか違和感ある」とか、「居心地悪い」ってなったら、実は簡単で、そこから1抜け、すればいいだけなのです。

ただ、その1抜け、が、ものすごい構造が強かったり、自分の思い込みの構造が強かったりして、できないだけで、ただこう言えばいいだけなんですね。

「抜けます」って。

「やめます」かもしれないし「出ていきます」かもしれないし、とにかく、そこから抜ける。何も宣言しなくともスッと抜けてもいいんだし、今の立ち位置を止めればいいわけです。「休む」もいいですね!

でも、繰り返しになりますが、構造がガチガチで、チャクラもとじとじで、思い込みもカチカチだと、これができない。とことん行くとこまで行ってしまう。わっちはそうなった時に、「自然」が構造を壊し出すのかなと思うんですね。

家庭だったら誰かが病気になったり、
別のパートナーができちゃうとか、
子どもに大きな問題が起こるとか。

会社だったら、労使がぶつかり合う、倒産、などなど。
国家だったら、社会だったら、、って考えると、
今の状況がよく理解できるかなと思うんです。
行くとこまで行ってるというか……。

で、全体の社会が、個との相似の状態(ホロン状態)だと仮定したら、ですよ、わっちは、個から、「1抜けた」をしたらいいんじゃないかなと。先に自分が○になってしまったらいいんじゃないか。さらに言ったら、たとえば書店で言うと、個人書店だったり、出版で言ったら一人出版社なんていうのもむっちゃ増えてきてまして、そういう潮流がはじまりまくっている。その流れが本当に自然の流れなのかなというふうに感ぜられるわけです。

△の時代は、「依存」の時代だった。誰かに依存して、共依存が蔓延って、ぬるま湯から出ても地獄、出なくても地獄、が散見された。一見やさしそう、楽そうなんだけれど、実際は冷たい。中身がスカスカ。本音と建前の世界。

○の時代は、個の状態で、甘えあう助け合う時代なのかなと。一見冷たそうでやさしくて安心な世界。中身が充実してる。表裏がない。本音しかない。

△の時代は、罪悪感、恐怖心、不安感、自己憐憫(自分をあわれむ)、自己卑下、こういうのが大流行りだった。なぜなら、そういう感情を持っている人は、コントロールしやすいからです。洗脳されていたんじゃないですかね。あっさりしたこというと。そうやって個人が自分を貶めていた。

でも

○の時代は、そういった一切の幻から目を覚まして、自分にしかるべき自信を持ち、たのしく気楽に自由に生きる時代なんじゃないかと思っています。

○の時代は、誰かのせいにしない、100%自分の責任で、自分の記憶が外側を映し出している(鏡の法則的に)と世界を見て、本物の自立をして、自分で選んで行動する。

いきなり全部じゃなくても、小さなことで一つ一つそうしていく。
(誰か友だちに誘われて、気が乗らないなと思ったら、断るとか、です。本当に身近な違和感、やりたくないことをやらないという選択をしていく)

そうすると、本当に、自動的に助けられる世界に入っていく、と。

△の時代は、とにかく「助けてー」っていう前に、依存して、その中で頑張って、依存し続けられるように、我慢して、無理して、その構造を自分の存在をかけて担保していた。

○の時代は、いつでも助けてって誰にでも言える。また助けてって言わなくてもそういうタイミングで自動的に誰かが助けてくれる。また助けがなくとも無理なくできる。

そういう感じでしょうか。

△時代の「損得勘定」「頭でなんでも思考する」「表裏のある態度」「自己卑下、自己憐憫」、あとは保身、そういったものを抱えていると、まったなしに、それが崩れるようなことが起こっていくのかなと感じています。それは、すごく昭和的で、△時代の、ピラミッド構造の中で、成功する方法だからです。

これもわっちの独自の考えですし、先日の声のメルマガでも話したんですけれど、人ってただ存在するだけでいいんだと思うんです。

その土地にその人がただ存在して息をしている。
それはその土地に、世界にもとても関係していることだと思うんです。

もっともっとわっちたちはエネルギーでも存在していて、(肉体だけではなく、また役割だけでもなく)ただ、「ここにいる」というだけで、世界に意味のあることなのだと言いたいです。そのことを蔑ろにしすぎている気がします。

わっちはずっと、この地球や自然と人間というのは呼応し合っていると思っていて、人間自体が○状態である人がいればいるほど、自然や地球も○になっていくんじゃないか。そういう考えで、マーマーを立ち上げたり、本を書いたりしてきました。今、ますますそれがそうなっていると思うんですね。

わっちたち個人は、ますます「自分である」必要がある。
ますます自分の○を磨いて高めて(休むということです)、
△社会の役割が何かとか求めないで、
自分の○の中心にいることにもっともっとエネルギーを注いでいいと思うんです。
エネルギーを注ぐ時代に移行しつつあるというか。

いや、まだまだ社会は△です。
崩壊しそうとなると、構造は、必死になってそれを止めようとするようで、
ますます△は△を強めようと、△構造に火を注いでいます。

わっちは、SNSをやっていますが、基本、発信するだけ、で、あまりたくさん見ていないんですね(フォローを誰もしていない)。でも、たまに、あれこれ自由に眺めていたりすると、ものすごくこの△構造を強めるエネルギーが働いているのを感じることがあります(すぐにそこから離れますが)。

たとえばですが、、、
右翼とか左翼とか、まだ言ってるのか、、と思います。

もう次の時代へ行っている人は、その、両翼から自由になってます。

そういう二項対立の場所にもういないんです。

△を強める場から、1抜け、2抜け、としています。

このブログを読んでいる人ならなおさら、かもしれないです。

それよりも、自分を、自分なりの尺度で(社会の尺度ではなくて)もっともっと豊かにして、自分にエネルギーを注いで、自分の中の「中庸」を目指していく。
混乱の中で台風の目のところにいるみたいに、しんとしずまりかえった場所で、そこを、心地いい場所にする。

そうして、エネルギーのいい状態、周波数の高い状態でいること、まさに神状態に自分が近づいていって、そういう人が一人でも二人でも存在する、ということが、まさに、この自然や社会や地球に影響をしていくと思います。

誰もが、誰かになろうとしなくていいし、何か不恰好なまま、病気があったらあったまま、何か足りないまま、でもその自分を丸ごと受け入れて、そうして自分を少しずつ温めたり、ケアしたり、中庸なものに触れたりして、エネルギーを溜めたらいい、とそんなふうに思います。

心身が「中庸」になれば、「構造」に影響を与えます。

誰かを変えようとしなくても、自分が変わると周りも変わります。
同じ土俵で対立しないことが手なんです。

大井実さんの本にあった、 「優雅な生活こそが、最高の復習である」みたいなことなんですかね(これは有名などなたかの言葉です)。
わっちは「復讐」とはいわないけど、でも、「土俵」からすらから降りる、ということをずっと思っています。

本当にこういうことをマーマー創刊以来、
手を変えしなを変えいってきたわけですが、
いよいよ、この、マーマーな考えが、本当に、本質的に必要な時代になったなと感じているんです。

△社会に生きる人はますます△が強固になっていくように思います。
○社会に生きる人は、ますます○を洗練させていくのだと思います。

そしてこの両者が、いよいよ、もう見えなくなっていく、地球が二つになっていく、なんていったりしますが、本当にそのタイミングなんだなと感じています。

もう、このブログも、読む人と読まない人とはっきり分かれてしまう。
何がいいとか悪いとかじゃなくて、何かがはっきりしてきている、
とそんなふうに感じます。

明日は、もう少しだけ自立の話(自立って、すぐに△社会の自立と勘違いしてしまうのですが、「経済的自立」が自立、とかそういう単純な話じゃないんですね。世界をどう見るか、ということかなと思っています)、あとは、さらに少し突っ込んだ、限られた場所でしかしていないお話をさせていただこうかなと思います。

これまでこういうブログは、有料にして、誰にでも見ていただけないようにしていたのですが、ツアーでお会いしたみなさん、またご縁のあるみなさんに、お伝えしたいなという、わっちの勝手な願いから書かせていただきました。


では、今日はこのへんで……。

コメント欄、全然入らないから、あまり伝わっていないのかなー、どうなのかしら、と思っていますが、みなさんに伝わっているといいです。

あ、最後にもう1曲

その名も

ハイそれまでヨ!!!!


なかなか昭和時代も、わかっているところもありますよね。

△時代にだめだったことは○時代にはめっちゃいいじゃんってことかもしれないですね。「丈夫で長持ち」って(爆)って思うんだけど、この「女房」の態度は、昭和の限界を指し示していますかね。

みんな、ほんと、好きに自由にやればいいわ、って思います。

畳、ひとめひとめ、離れていこうって!



ということで!!


服部みれい、
ど、
え、
した!!!!


また明日お会いしましょう!



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