雑感:「トーキョー金融道」と野村証券

今日、「トーキョー金融道」という昔の書籍をパラパラみていました。当時の松本大さんは今の私と同じ年齢くらいで(松本さんがこれを書いたときが40歳)、どういうことを言っているのかなと思い、手に取りました(僕らの世代の多くは、松本さんに対しては憧れを持っているのです)。

その中で、野村証券を褒めていて、びっくりしました。一部抜粋します。

松本「ぼく自身は野村の株をやっているほうの人たちとは面識ないんですが、野村の債券部とゴールドマンの東京の債券部とかスワップなんかを含めてくらべてみると、僕がやっているときに差は感じなかった。じゃあ、日本の証券界の二位以下はどうだったかというと、全然違う(笑)。外資と野村の差より、野村と二位以下の差のほうがはるかに大きかった」(p.76)

松本「野村証券はですから、ぼく自身すごく尊敬してきたし。まあ株のほうのリテールの話はちょっとわからないですよ。それは言い始めたらきりがない。いろいろあったと思うんで。でも、ホールセール部門の仕事ぶりは、そりゃ立派でしたね。

じゃ、なんで野村証券が他の日本の証券会社とちがっていたかというと、たぶんね、目標がすごいクリアなんだと思います。要するに『外資にも負けないようにカネ儲けしよう』とかね、目標設定が非常に明確なんですよ。必要ない者はどんどん切っていくし、一方で下剋上もいくらでもある。昨日までの部下が今日は上司になっていて、一応、『さん』づけでよんでくれるけど、『この成績じゃ困るんだよね、××さん』といった状況が平気である世界なんですよ。日本の大企業の中ではきわめて異質な、ある意味すごいところです、野村証券は」(p.76)

巷で言われている野村の印象は、ほとんどが支店の営業の話であって、松本さんが書かれている通り、ホールセールのビジネスは全く違う世界ではあります。転職して規制当局に行った知人が、中にいるより外からみるほうが野村證券は立派に見えるという言葉を思い出しました。これは、どこの会社や組織でもそうかもしれませんね。

私はリーマン・ショックがあった2008年に証券業界に入り、入社して数か月後にはリーマン・ブラザーズが破綻して、合併されました。金融危機以降、特にホールセールビジネスは、規制もきつくなってしまい、かつてほど業界で新しい技術を出せなくなっていきました。私が業界を去る際、証券会社が提供するプロダクト自体は私の入社時からほとんど変わっていなくて、金利の支払い方がちょっと違うプロダクトを扱っているという印象をうけました。

とはいえ、マーケットそのものが面白いことには全く変わりありません。また、膨大に発行される国債を販売したり、プレーンなデリバティブのマーケットを作ることの重要性自体は何も変わっていません。

松本さんの本では、下記の通り、野村では若くして役員になることができて、その点はゴールドマン・サックスと遜色ないと書いています。

松本「トップの年齢に関しては、たとえばゴールドマンと野村證券とかくらべたらあんまり変わらないと思いましたよ、僕がゴールドマンにつとめていた当時。野村證券はその意味ではすーごく進んでいるんですよね」(p.75)

ただ、この点は大きく変わったとおもいました。今では上が詰まっていて、私から下の世代は部長や課長になるのですら厳しいという世界になってしまった気がします(それに嫌気がさして転職していった知り合いは少なくありません)。業界が拡大していた時代は、先輩が外資へ転職して若い人が大きな仕事を貰えて、みたいな循環があったのだと思います。

私のようにバブルが終わってから証券会社に入った人間と、1990年から2000年にかけてビジネスが拡大していく中、証券会社にいた人ではまったく違う世界がみえていたのだと感じました。もっとも、この構図は日本の証券会社全般にいえるのかもしれず、これを先輩に愚痴っても仕方ない気もしてきました。

大学にいると、かつてより外資系の金融機関の人気が学生に増えている気がしますが、私のようなおっさんになると、日系から外資に行き、苦しむという事例もたくさんみているので、何がいいかわからなくなります。私は日系企業にいたから、周りの職員はリストラになる確率も相対的に低く、私のめんどくさい質問にも付き合ってくれる先輩や同僚が多かった気がします。結局、自分がやりたいことをやるしかないというどうしようもない現実があるだけかもしれません。

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