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【一部始終】第十三話 ~決~

 どれくらい時間が経ったのか、分からなかった。
 僕はのっそりと起き出し、まずトイレに行った。身体が空腹を訴えていることにも気付いていた。
 こんなときにも生きようとしている自分の身体が憎かった。
 いっそ死んでしまいたいと何度も思ったのに、それだけでは消えられない厄介さを呪った。
 水道水をコップに注いで、飲んだ。
 僕の身体が自然と机に向かい、ノートパソコンの電源を入れた。
 カーテンを閉め切り、電気も付けていない。そんな暗い部屋で、パソコンのディスプレイがひときわ明るく光を放った。
 キーボードに手を置いた。この姿勢が一番落ち着くことに気付いた。
 小説を書きたいなあ、と思った。
 そう思ったら、涙が出てきた。
 僕はどこで間違えてしまったのだろう。ただ、幼いころからの夢を叶えたい一心だった。怠ったわけではない。僕は一生懸命、そのときの僕が下した判断に従って、小説を書いていただけだ。
 なのに、今、僕は一人で、小説も書かずにここにいる。
 泣きながら、新規の文書画面を立ち上げた。
 そして、そこに何かを打ち込もうとした。
 でも、何も浮かばない。何も書けない。僕の頭の中に、新しい物語は浮かんでこなかった。
「なおーん」
 聞き覚えのある猫の声がした。下から聞こえた気がして、椅子を少し引いて、机の下を見た。
 黒猫が座っていた。闇に紛れてよく見えないが、黄色と青色の目がくっきりと浮かびあがり、僕を見つめていた。
「どうして……?」
 久々に聞いた自分の声はかすれていて、自分でも聞き取れないほどだった。
 黒猫は僕を見上げて、もう一度「なおーん」と鳴いた。
 いよいよ幻覚を見たのだ、と思った。僕にはもうまともな思考回路は残っておらず、現実にないものを作り出すようになったのだと。
 黒猫は長い尻尾を立てて揺らし、玄関の方へ歩いて行った。散乱したままの本やリモコンをうまくかわして歩いていく。電気をつけ、黒猫のあとに続いた。黒猫の背中が、光を反射して輝いていた。
 黒猫は、玄関に立つ黒いものに頭をこすりつけた。
「ぶるにゃおーん」
 聞いたことのない声を出して、繰り返し頭をぐいぐいと押し付けている。
 僕は顔を上げた。
 占い師の男と、目が合った。
「どうもお久しぶりです」
 占い師は見覚えのある笑みを浮かべ、玄関に立っていた。
 僕の心臓がどきんと脈を打ち、身体が震えた。
「ハーブティーを、いれますね」
 占い師はキッチンに立ち、迷うことなく流しの下から小鍋を取り出し、胸ポケットから取り出したティーポットで、ハーブティーを沸かした。黒猫は足元で、毛繕いをしている。
「あの」
 僕は幻覚を見ているのだと思った。
 占い師が僕の部屋にいるはずはないし、いたとしてもティーポットは胸ポケットから出てこない。黒猫だって、いつの間に僕の家の中に入ったというのだ。
 僕が呆然としている間に、占い師は部屋を片付け始めた。
 美華子が手当たり次第に投げた本を、何も聞かずにあるべき場所に戻していく。僕はどうしていいか分からず、その姿を見守ることしか出来なかった。
 少しだけ片付いた部屋のテーブルに、占い師はハーブティーのカップとソーサーを置いた。そして、僕の向かいに座った。
「どうぞ」
 僕は促されるまま、ティーカップの前に座り、カップを手に取った。
「どうぞ。冷めないうちに」
 ハーブティーを口に運ぶ。温かい。美味しい。幻覚のはずなのに、良い香りが僕の中に染みて、溶け込んでいく。
「本日は、アフターサービスにまいりました」
「アフターサービス?」
 意味が分からない。占い師は「ええ」と頷いた。
「実は店舗を移動することになりまして。最後のご挨拶も兼ねています」
「移転、ですか」
 言葉の意味は分かる。しかし、それが脳に染みていかない。僕は占い師の言葉を、脳内でもう一度繰り返した。
「はい。野々村様には大変お世話になりましたので、特別にお伺いしました。ご希望であれば最後の占いも出来ますが、どうされますか?」
 名乗った覚えはないのに、占い師は僕の名を呼んだ。それから、膨らんでいなかったはずの胸ポケットから、するりと水晶を出して見せた。
「今の僕に役立つ映像を、見せてくれるってことですか?」
 皮肉を込めて言ったつもりだった。しかし、占い師は意に介した様子もなく「ええ」と頷いた。
「ご希望であれば」
 僕は自分の拳を握りしめた。夢ならさめろと思った。握った拳の中で爪が手のひらに刺さり、痛みを訴えた。手の色も変わった。
 しかし、占い師は変わらずそこにいる。
 そこにいて、愚かな僕をただ笑って見ている。
「あなたの」
 僕は息を吸って、言い直した。
「あなたのせいで、僕の人生はめちゃくちゃだ!」
 占い師は笑った顔のまま、首を傾げた。占い師の膝の上で器用に丸まっていた猫がぴくりと耳を動かしたのが見えた。
「あなたの見せた映像のせいで、僕は何もかもを失った。役に立つ映像なんて、嘘じゃないか。そのせいで、僕は、僕は……」
 それ以上言葉は続かなかった。言いたいことも頭の中でまとまらない。大きな声も出ない。みじめな気持ちでうなだれる僕に、占い師は「ですが」と言った。
「あなたの夢は叶ったではありませんか」
 何も言えず、下唇を噛んだ。占い師の言っていることは、間違っていない。
「あなたの夢は、小説家になることではなかったのですか?」
 僕は占い師にそんな話をした覚えはない。でも占い師は、当たり前のように、それを知っている。
「あの映像は、あなたのお役に立ったのではないでしょうか」
 確かにそうだ。実際、水晶が見せた映像がなければ、僕は恐らく丸谷新人賞も受賞出来ていない。その後、専業で作家を続けていけるくらい収入を得ることも、難しかったかもしれない。役に立たなかったと言えば、それは嘘になる。
 反論したくても出来ない僕が俯くと、占い師は「それで、どうされますか?」と続けた。
「最後の占い、されますか? お困りのようですが」
 占い師の言う通り、今の僕はお困りだ。何をどうしたらいいのか分からない。これまでで一番、追い詰められている。
 でも、ここでまた占い師の力を頼るべきなのだろうか。
 僕は占い師の目を見た。占い師はにっこりと笑い、優しい声で囁いた。
「あなたのお力になりたいのですよ」
 その言葉は、僕の胸にすうっと入り込んできた。
 もしかしたら、と思った。水晶には今のこの現状を打破する何かが映るのかもしれない。
 どうせ、僕にはもう失うものなんてない。
 僕は今までの出来事の不都合な事実に蓋をして、占い師の言葉を信じようと自分に言い聞かせた。頭の片隅では、やめた方がいいと訴える、いつもの僕もいた。
「じゃあ、せっかくだから」
 口から出た消極的な肯定は、僕のせめてもの抵抗だった。
 そこまで言うなら、僕も考えますよ。
 なんの腹の足しにもならない、醜い感情の発露。自分でも、嫌気がさした。
「それでは、今回のお代はどうされますか」
 占い師は、そんな僕の態度を気にした様子もなく、にこやかに尋ねた。
 僕は大したもののない部屋を見回した。
 今の窮状を救うほど、僕にとって大切ななにか。そんなもの、ありはしないのではないかと思った。
「どうしましょう」
 心の中はすかすかだった。指定されたものなら、なんだって渡そう。一瞬で決めた覚悟は、占い師の一言で、一瞬で打ち砕かれた。
「では、あのトロフィーを」
 占い師は、ひびの入ったガラスケースを見た。トロフィーは中で倒れたままになっている。
「あ! いや、あれだけは……!」
 僕は手をぶんぶんと振って否定した。
 あれだけは、どうしても失いたくない……!
「ですが、あれくらい価値のあるものでないと、お求めの情報はお渡し出来ないと思いますが」
 占い師の口調は今までと変わらないのに、僕の心を冷たく撫でた。
 確かに、僕にとってあれほど心の支えになるものはない。見返りはよほど大きいに違いない。
 ここまで落ちぶれてしまったのだから、僕はこのまま『野々村太陽』としてやっていくことはもう無理だ。
 だとすれば、あれはもう、過去の遺物であり、無用の長物たりえるのではないか。手元に残すことで、却って未練につながりはしないか。
 僕は必死に考えた。
 考えに考えて、ようやく言葉を発そうとしたとき、占い師の膝の上で丸まっていた黒猫が立ち上がり、毛を逆立てて、「しゃー!」と鳴いた。テーブルを越えて、僕にとびかかって来た。
「僕は……!」

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