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「エモい」イルカショーを見て

※この記事に出てくる写真は私が以前和歌山県太地町で撮影したものです。これから記す「先日見たイルカショー」とは関係ないです。

 先日、いろいろあってとある水族館でイルカショーを見た。3年ぶりくらいだろうか。ショーが始まるのを待つ間、なんとなく懐かしさを感じていた。クジラにひかれ、捕鯨についてもやもやしながら和歌山県太地町を訪れた時の記憶もどうやらすっかりと心の奥にしまいこんだままになっていたようだ。うっすら積もった埃を苦笑いしながら払っているうちに、インストラクターの人たちがステージに登壇する。ショーは、始まった。

 会場に「エモい」感じの音楽が鳴り響く。ステージの上からシャワーのように水が流れてくる。そうか、今のイルカショーはこんな感じになっているのか。確かに今から凄いものを見ることのできそうな気がする。つまり、高揚感MAXだ。舞台は整った。そして、そこに現われた”主役”であるイルカたち。彼らは、ああ、彼らは、初めて出会いはするのであるが、それでも彼らは、僕の知っているイルカたちであった。

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 子供の時から何度か水族館でイルカショーを見てきた。太地町に行った時もイルカショー(クジラショー?)を見た。ちょっぴり勉強した身なので、「イルカの調教自体に問題がある。イルカショーは残酷だ。」なんて主張があることは知っているが、素早く泳ぎ、大きくジャンプするイルカを前にするととにかく大きな拍手を送るしかない。彼らはいつでも、私の心を捉えてくるのだ。

 先日見たイルカたちも、凄かった。しかし、なんだか印象が薄い気がする。なぜだろうかと考る。私の心がすれてしまったのか。否定したいがなかなか簡単に否定できない仮説よりも前に、一つの確信に思い当たった。多分、あの空間は、あまりにも”舞台が整いすぎていた”んだと思う。まあ私の中の「イルカショーのイメージ」が前提になった考えではあるのだが。

 「イルカショー」と聞いてどんなものを思い浮かべるだろうか。ジャンプしてボールにタッチするイルカ。「水がかかるかもしれません」と言われてそこでしか使わないポンチョを購入して、結局あまり水はかからないなんとも言えないあれ(かと思えば何も買ってないとこれでもかというくらい水をかけられる)。にこやかでよく通る声のインストラクター。餌の魚をたくさんもらうイルカ…。

 私の見てきた「イルカショー」は、どこか牧歌的な空気が流れているものが多かったように思う。イルカは芸を見せてくれる。観客はそれを応援する。最初の自己紹介ではひれを振るなど愛嬌を見せ、それを見て可愛いななんて思う。餌を食べるなども含めて「イルカが何かしらやる」ことを、観客は温かい拍手で迎えていた。そんな”ショー”だった。

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 先日のイルカショーは、まず音楽が前面に出ていた。賑やかで、感情を揺さぶるような音楽と共にイルカたちの芸を見るわけだが、正直なところ”音楽に合わせた演技”ができていたわけではない。なにせ音楽のテンポが速すぎるのだ。そして、音楽のテンポが速すぎるからこそ、大技を決めた後に拍手を送ってもすぐに次の技、違った雰囲気に移ってしまう。観客の側にもイルカをじっくりと応援する余裕がない。

 最初、整えられた舞台にイルカショーの進化を感じたが、当のイルカたちは私の知っているままのイルカたちだった。ショーはなんだかあっという間に終わった印象がある。それは、音や舞台の構成が「エモく」なった代わりに、イルカに感情を持っていかれる”余白”が無くなってしまったからではないかなんて思ったりする。

 昨今「すぐに心を掴む」ことを重視したマーケティングが展開されているとか耳にする。個人的にしっくりこないためしつこくカギカッコをつけている「エモい」という言葉が生まれているのもそうした背景があるんだろう。ただ、エモーショナルであろうとすることが、あのイルカショーの空間ではノイズになっていたと思う。イルカたちの芸のテンポと音楽の「エモさ」が釣り合っていなかった。それならば、イルカたちの挑戦に息を呑み、成功に拍手する、共に時間を共有できるような構成の方が、見てみたかったなと、勝手に考える。

 そして、音楽が主役になったイルカショーなんてイルカがかわいそうだな、どうせならイルカがしっかりと拍手をしてもらえることを第一にしたショーの構成にしてほしいななんてことをこの期に及んで無邪気に考える自分の、人間としての身勝手さに溜息をつく。イルカは、今も昔も、私にいろんなことを気付かせてくれるみたいだ。また太地にも行きたいな。今度はきちんと旅館をとって。

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