見出し画像

『野火』と『ひかりごけ』を読んで色々話したという話

 先日後輩に誘われて読書会という名の飲み会に行きました。読んできてねと言われた本が『野火』と『ひかりごけ』。カニバリズム、人肉食を題材とする小説として有名なこの二つの本をもとに色々喋ったのですが、最近はただの引きこもりと化している私には読んだ本の感想を話すということはあまりにも刺激的すぎて未だに色々考えてしまいます。ほんと感謝ですね。

 色々考えてしまって元気なので、考えたことなど書き散らしてみます。すべて私の考えでもなければ全て受け売りなわけでもないこれを書いてみるのって怖いですね。まあ、以下今の私の頭の中をぐるぐるしているものたちです。

■人肉食は非難されるものなのか

 この二つの小説について話すもんだから、当然人肉食の話になります。飲み屋で焼き鳥食いながら人肉食の話をしてよかったのでしょうか。『ひかりごけ』ででてくる”裁く側”の人たちは人肉食を非難することこそが当たり前であるという感じの振る舞いをしていたので、この問いが出てくるのは当然ではあるんだろうなとは思いながら、シンプルゆえにストレートな答えでは簡単にはじき返されそうな感じのする命題でもあると勝手に思っています。生き物を食べることについて、菜食主義について、尊属殺人について、シーシェパードについてとなんだかいろいろ話をして、どの分野もわりと自身の興味がある分野な気がして心の中で乾いた笑いが起きていました。居酒屋の有線ではラルクが「乾いた~」と歌っていました。

以下、いろいろ。

○二つの本は「殺人」と「人肉食」について考えるものとなっているが、そもそも人肉食を悪とする感覚自体がない

⇒「人肉食はすなわち悪だ」という考えの人しかいないひかりごけのラストなどは違和感のあるシーンではあった。尊属殺人は罪が重いなどの「時代としての感覚」もあるのかもしれない

⇒臓器移植、提供などは「悪」ではない
 →生前の許可がいる。「死後の体を傷つける」ことに対しては非常に敏感に対応が行われている印象がある。

 →けどそもそも死後に意思が尊重されるとはいえ、例えば死後の所有者は家族であることから、家族が提供しますといった時に「否定」する「意志」を持つ者は存在しないはずでは(多分制度としてダメだけど)。

 →「食べる」という行為への捉え方の不思議。「食べる」と「殺す」が同意ではないというのは人間の営み故か。

○そもそも『野火』において人肉食のパートが少なかった。”主題”といえるだろうか。
 →「人肉食」自体がショッキング。それだけで注目されうる。「命の問題」として、人をひきつける

○属する文化によって人肉食が許されるかが違うと感じる。前提として、「種として生存するため」に殺人同様人肉食は禁じられてきたのでは?

⇒上の意見は相対的な評価であるが、「人肉食は絶対的に許されるものではない」と考えたい。

⇒論理的に人肉食を否定することは不可能ではないか。その上で、「人肉食」をしたいと思う感情は“異質”なものという認識が恐らく一般的なまま社会はできている。
 そこに、否定のための絶対的解答が無いがゆえに“ほころび”はあちこちにあった。そのほころびがあるからこそ、『野火』や『ひかりごけ』といった小説たちが、“人肉食”という属性を前面に注目されるのだと思う。
 また、それでも人肉食を異質とする感覚に働いているのは、「種としての生存」ではなく、より感情的、感覚的なものと感じている。
 人はコミュニティを形成しながら生きる。「一人では生きていけない」。だから、その「共存」するべき他者を「食べる(殺す、も内包する?)」ことは「コミュニティを破壊すること」につながると、感覚として理解しているのではないか。

 例えば、野火の中で、田村は一人の時は食わない。仲間といる時に食う。一人の時は、「自分の中の規範」と戦う。視線を怖れ、最終的に食うことはできない。

 しかし、仲間と合流した後、半ば自然な流れで人肉を食い、そのことについての言及はほとんどない。具体的に生身の人間が表れ、小さくとも「コミュニティ」が目の前に現われてしまったうえでは、「そこではこの肉を食べるのが当たり前」となる。コミュニティが確保されているため、先に持っていた「視線への不安」はそこにない。(もちろん極限状態であるということはこの心理状態に大きく影響するはず)

○田村が人肉を食べるのを自身で禁じることができた(と書いてある)のは、いずれも「周りに人がいない時」であるのが大変興味深い。(後述するように、)「人肉食をしない」こと自体が田村にとって「本能的」であると感じる。

■『ひかりごけ』の後半はなぜ戯曲だったのか

 一応演劇やってて戯曲書いてたりするので、唐突に表れた『ひかりごけ』後半の戯曲パートについて、なぜ戯曲だったのか、とかは考えたりするわけです。それで、『野火』が小説という技法を用いて読者に与える作用と『ひかりごけ』の戯曲使用による作品の機能について、それぞれあまりにも素晴らしいものだと感動して興奮しながら話したのが一昨日で、それらの考えの中で自分は小説や戯曲という表現様式に限界を定めてしまっているのではないかと自問し、自分を責めたのが昨日です。楽しすぎますね。

以下、またまたいろいろ。

○戯曲を用いたのは武田泰淳の小説家としてのスタイルではないか。私小説がメインの彼は、「非日常」に類するものの表現形式を模索して、戯曲にたどり着いたのではないか。(武田泰淳は『ひかりごけ』しか読んだことのない青木:ほえー)

○あまりにもわざとらしい「戯曲を用いて」、「観客一人一人に演出家になってもらう」という仕組みには明確な意図があるのでは。
⇒“なぜ”というには都合がよすぎるかもしれないが(後付けのようにもなってしまうが)、小説と戯曲という二つの形式と今回の2つの話について以下のように考えることができる。

 まずは小説と戯曲の違いについて。大きな違いは、「読者」がどこにいるか、さらに言えば「読者」の身体が存在しているかどうかにある。戯曲を読むとき、読者の前には「舞台」が表れる。今回の場合は「演出家の気持ちで自由に読んでほしい」なんて言われた後だから、それは余計にそうなる。その時、読者は自分の目の前に広がる舞台の様子を見る者となり、その舞台に対している自分の身体は無くならない。
 一方、小説は”没頭”するものだ。文字を追いかけて物語を頭の中に思い浮かべる。そこに、「読者の姿」は想定されない。もちろん、語り手の存在などがあって、ある程度の誘導はあるけれど、読者の身体はその物語には何の影響も及ぼさない。

 また、戯曲には感情が記されない代わりに、「そこで起こっていること(事実)」は全て書かれる。戯曲は事実の積み重ねであり、その事実に余白は無いが、その出来事の裏にあるであろう感情、背景などには広大な余白が広がっている。もちろん、小説には別の余白が広がっているのだろう。『野火』において田村のもはやどうしようもなく倒錯した感じは小説による「物語への没入」によって同区者との共有を可能にしているのかもしれない。このように小説的に大変面白いからこそ、『野火』という小説が今でも読まれているのかもしれない。

 さて、『野火』が極限状態における人間の行動について描写がなされたものである一方で、『ひかりごけ』については「人が人肉食という”罪”を犯す、ということは当然である」という立場から話が進んでいることが分かる。『ひかりごけ』の中で『野火』における人肉食の扱いへの言及があることからも、武田は「人肉食をすること自体の善悪」ではなく、「いずれの人間も犯し得る”人肉食”というものへの反応」を読者に確かめてもらいたかったのではないか。そうなると、これは戯曲の出番だ。「人肉食がある」という事実は揺るがない。それを「判断する人たちを監視する立場」に、読者は戯曲の演出家になることによって半強制的に立たされる。だからこそ、第2部の「裁く人たち」はあまりにもわかりやすく人肉食を非難している。「分かりやすい反応」に対してどうこたえるか。論理的に否定することができない人肉食をどのようにまなざすか、そこに”演出家”としての技量が試されているように感じる。

■「理性」と「本能」~人肉食を止めるのはどちらか~

 個人的にこの話がめったり面白かったです。事前に本を読みながら、『野火』については上にも書いたように田村が社会に属しているか、一人で行動しているかが「人肉食」という行動に大きくかかわっているんだなあ、なんてことも思ってはいたけれど、その時はこの二つの言葉は頭に浮かんでいなかった気がします。ただカニバリズムについて話すとき、人はあまりにも自然にその二つの言葉――「理性」と「本能」――を使うし、人はあまりにも自然にその言葉がそこに出てきていることを受け入れていた。そのこと自体は自分でもすぐに納得できることだったからこそ、この二つの言葉が大変不思議に思えてきて、翌日「理性 本能 違い」とかでググってみてしまいました。結果、理性と本能どちらがいいか、などと言いながら恋愛論を語るブログにたどり着き、深い深いため息をついていたのだけれど、案外今回考えたことを補完するようないいことを言っており、息を呑みました。いや、あれはため息が深すぎて息が続かなかっただけなのかもしれません。

以下、あれ。

○「”人を食べてはいけない!”という”理性”」についての話もちらほら出ていた気がする

○人肉食をすること、しないこと。どちらが「本能」で、どちらが「理性」かわからない(はっきりしない)。

⇒生き残るために食べるのならば、実はそれは「理性」かもしれない。「仲間を食べたくない」は「理性」なのか、はたまた「本能」なのか。

○そもそも動物をそのままみても、「食料」と認識できない。スーパーの赤い肉を見て初めて、「食べる物」だと分かる。普段食べ物だと思っていないものを食べることができると判断する、分析することは一種の理性が働いているのではないか。

○「本能」と「理性」、特に「本能」について、それが「人間」と「動物」が違う所以をどう含んでいるのか考えていくことができるのでは。人はなぜ人間なのか。腹が減ったら食う、これは獣の行動なのか。共食いは、人間だけが禁じるものなのか、誰が、誰に対して禁じているのか。

・最近私の食欲と空腹感が一致しない。おなかが空いている感覚はあるのに、食欲がない、ということがある。その時、私は生存本能が希薄な状態なのだろうか。今回の小説と比べるとあまりにも飽食の時代に生きる私ではあるが、なんにせよ一致していた方が生きやすいと感じる。これは愚痴だ。

■その他いろいろ

○戯曲とは~、小説とは~とか言ってていいのだろうか。上に出したものは「結果的にそのような要素を持ちうる」ということの一つに過ぎないことは何度も念押ししないといけない気がする。

○「食べる」ことの「気持ち悪さ」については今回はあまり言及できなかった気がする。たぶんどちらも「悪」として捉えられる。人肉を食べることの忌避感。ペットは家族か、的な議論と同質な気はするが、それは正しいのだろうか。何かを見落としてはいないか。口に入れる、血とすること。その宗教的な意味合い、今は見えないものがあるのではないか。

○どちらもめちゃくちゃ面白い本だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?