「保守」とは何か

よく「若者の保守化」などと、あまり良い文脈では使われていない「保守」という言葉。そんなに「保守」とは悪いものなのか。そもそも「保守」とは何ぞや?ちょっと考えてみたい。

「保守」は「伝統」「常識」を尊ぶ

保守は伝統を重んじる。コレに文句がある者はいないだろう。ときどき「ニセ伝統」が流布されていることがあるのが要注意だ。この辺は「日本会議系カルト」がよくやる手段といって良い。よって奴らは「保守」ではない。

肝は「常識」を重んじる立場だ。「常識」というのは明文化されていない規範である。「ネトウヨ」はここが徹底的にダメだ。まともな常識ある大人はアホみたいに抗議運動を煽ったりしないものだ。よって彼らも「保守」とは呼べない。

「保守」は「現実に立ち返る態度」である

「保守」とは現実主義者である、とここに定義しておきたい。少なくとも「現実」から目をそむけないのが「保守」だと強調しておきたい。現実というのは、その時代で異なる。これは「常識」もそうだろう。変わらない芯は守りながら現実に立ち返る。

時代の価値観(現実)から逃げないのが「保守」。夢想主義や陰謀史観に走ってしまうのが「似非保守」と断じておきたい。

「保守」とは「公」を尊ぶ姿勢である

「公」の定義は考えるより難しい。下手をすると「同調圧力」と同義と考えられがちであるが、自分はちょっと違うと思う。

「個」よりも「公」を取る。偏らず「公」を取る。

「公」に対する語が「私」であるならば、当然「公」を取る姿勢。

ここでは、それが「保守」だと述べるに留めたい。

「保守」とはバランスである

「公」には「偏らない」という意味もある。保守はバランスを保つことが肝要である。ときに右や左にバランスを崩しそうになるかもしれない。その危ういバランスをぐっとこらえるのが「保守」のあるべき姿だろう。


・・・とシンプルに考えていくと本当の「保守」なんて、この世にあるのか?などと不安になってはいけない。昨今の「保守」とラベリングされているものにインチキが混ざっている(それもかなり)だけの話だ。

ただ「反・左翼」だけのもの、ただの「排外主義者」、ただの「弱者叩き」・・・

そんなものは捨て置け!

自分の信じる「保守」をこそ体現していけば良いのだ。

深く考えると難しいが、要するに上に書いたことに立ち返れるなら難しいものじゃない。

セコい狭い道を歩むな、大きな道を少し太っ腹で真中を歩むのだ。そうすれば大きくは間違えない。

自分の中で守りたい大事なもの。それを大切にする心。

そんなものを抱えながら、大いに「保守」を語れ。


てめーら、何を「保守」したいのよ!?


この問いかけで駄文を締めるとする。

貧しいのでいくらか恵んで下さいな