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雑記 / 友達観

はじめに

とも‐だち【友達】
互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。友人。朋友 (ほうゆう) 。友。「―になる」「遊び―」「飲み―」

「友達」で検索したらまぁまぁ香ばしいサイトも多数ヒットした。なんというか若干検索エンジンに心配されているような気がしないでもない。

さて, そもそも何故友達観という香ばしいタイトルで記事を書いているか。それはブルーアーカイブ最終編第二章のとあるシーンが非常に印象に残っていたからだ。このシーンである。


この目すき

このシーンに至るまでの概略を説明すると
・上のピンク髪の顔が良い女(以下聖園)がとある事件の首謀になる。
・他の女達がその事件を解決し, 聖園が投獄される。
・その後の聖園に不満を抱いた一部生徒が不満を聖園にぶつける。
★図1の顔が良い女(以下下江)が止めに来る。
・投獄と共に処分された聖園の私物を下江が押収の担当としてこっそり保管していた。(図2)
・聖園感謝の正拳突き(しません)
 →窮地に陥った下江を聖園が助けに来た。

図1 下江は己にとって当然のことをした
図2 かなり端折っているので最初から読んで欲しい

これらの断片的な情報を組み合わせると, 「多くのものを喪い, その中で自分を救ってくれた下江(お友達)を救いに来た」というアツいシーンである。

だが, その時の下江の反応が妙に引っかかる点があった。

名前が出てこない

「友達」というにはやや距離感がある。
その後の反応も最初は妙に引っかかっていた。
故に次のような印象を覚えた。

あれ, もしかしたら聖園が一方的に下江を友達認定しているだけではないか?と。

新手の聖園虐である。

そして実装された聖園の絆ストーリー(キャラクターの個別ストーリー)でも, 彼女の友達観というものが妙に引っかかっていた。

友達とは一方的なものか。

そもそも論にはなるが, 友達とは何だろうか。実に抽象的である。僕は中高を少し特異な環境で過ごしていたこともあり, 「友達」という概念に対しては少し思うところがあった。有り体に言えば, 「どこからが友達で, どこからが他人なのか?」という内容である。

ゲーム風に言うのであれば, 初めて出会うキャラクターに贈り物をしたり, クエストを共にしたりする。そして絆が深まり, 個別のエピソードが解禁される。そして晴れて友達となる

つまり, 友達というものに, デジタルな数値やイベント条件で友達か否かを区分出来るものだと考えていた。

しかし, 大学三年のとあるゼミナールで, 出会って二回程度なのに下の名前で呼んでくる, あまつさえ僕を「親友」と宣うY君という学生がいた。

正直僕はY君のことが好きでは無かった。馴れ馴れしいしうるさい。簡潔に述べるならば教科書通りの陽キャである。出会って間もない人間を親友呼ばわりしてくる彼が微妙に苦手だった。

この手の話だと, その後Y君と僕が運命的な出来事を共にし, 僕の考え方が大きく変わり, 就職した今でもY君と連絡を取り合っている……

なんてことはない。ここは現実だ。

卒業し, 僕は上京した。彼とは最後の飲み会で少し話したくらいだ。それから一度も話したことは無いし, 今みたいにLINEグループなんてものは無かったから, 連絡を再度取り合うのは困難である。

その程度の関係なのに, よくもまぁ「親友」と呼べるな。と言葉が脳裏をかすめることもある。しかし, それもあり得ないと感じるのも無理はない。僕は休みの日にY君と遊んだり, 頻繁に連絡を取り合う仲では無かった。そんな僕と仲が良いかと言われれば, 確実にイエスとは断言できないであろう。

ならば何故彼はあの時, 僕を「親友」と言ったのか。今なら何となく想像がつくが, きっと特に理由は無かったのだろう。言い換えればノリや空気。何となくその場に落ちていた石を宝物と言ったり, 偶々見つけた本を運命の一冊と言ったり。

それが本当かどうかはわからない。そもそも理由なんてものも無かったのだと思う。同じゼミナールに居た, 何となく隣の席だった, その場の空気で言ってみた。敢えて理由付けをするのであれば, そんなところだろう。

とどのつまり何が言いたいか。僕と彼とでは友達観が大きく異なっていたということである。彼にとって友達とは, 常日頃から使っている言葉であり, 認識でもある。しかし僕にとって友達とは, 非日常の言葉であり, 特別な認識を持っていた。言い換えれば, 彼にとって友達は当たり前の存在だったのかもしれない。事実彼の周囲には常に誰が仲が良さそうな人がいた気がする。

この認識のズレが, 意識のズレを産んだのだろう。

友達観のズレ。

ではこの下江の件と聖園の件をどう捉えるか。「当然のことをしただけの下江と, その当然に救われた聖園が彼女を大切なお友達と認定したが, 別に下江は友達云々とは考えていなかった。」とてもご飯が美味しくなる妄想だ。これだけで白飯1.4杯はいけそうだ。聖園は下江を友達だと思うが, その逆はどうであるか。一方的な友達関係なのではないか。

事実, 聖園の絆ストーリーを読んでも, どこか引っかかる点が多い。今彼女と親しく出来ている存在はどれだけいるのだろうか。事件の首謀となった彼女と仲良くしてくれる存在は如何ほどなのか。

もしもその数が少なかった場合, たとえ一言であっても, 聖園が自分の為に投げかけてくれたものであるならば, 値千金なのだろう。空腹の時に与えられるチロルチョコが何物にも代えがたい美食と化したり, 凍えそうな時に一杯の白湯が何物にも代えがたい希望と化したり。

多くを喪ったが, それでも自分に手を差し伸べてくれるヒトやモノやコトを必死に手繰り寄せようとしている女, それが聖園ミカという女だ。という結論に至った。とても僕好みの展開だ。それでも彼女は生きなければならない。自分自身と闘わなければならない。そういうキャラクターは大変好みである。

当たり前をこなしたに過ぎないのかもしれない。

だが, 書いているうちに別の考えも浮かんできた。聖園は本当に「自分を救ってくれた存在=お友達」と本当に考えていたのか?という点だ。

つまり, 状況証拠のみで聖園は友達を喪い, 独りぼっちで, それでも手を差し伸べてくれる存在を友達だと認定していたのではないか。先程述べた, 「デジタルな数値やイベント条件」を友達の条件だと考えてはいないか?ということだ。

もしかしたら聖園は, 自分とおしゃべりしてくれる存在は全員友達だったのかもしれない。その友達観を持っていたのかもしれない。だから, 冒頭の「お友達」発言も, 特別な意味は無く, 彼女にとって当たり前のことを言っただけに過ぎないのではないか。

下江は己の気持ちに従い, 当然だと思うことを実行した。実際それで聖園は救われた。そして今度は聖園が己の気持ちに従い, 当然だと思うことを実行した。実際それで下江は救われた。

その行為自体は両者にとって「当たり前の応酬」であり, そこに特異な友達観とズレが存在すると感じたのは, 他ならない観客の僕だけだったのではないだろうか。

ところで自分が感じた当たり前のことをする, 思いついたキャラクターが一人いる。

ワートリのメガネ君だ。ワートリは名作なのでマジで読んでください。

話を戻そう。つまるところ, あの世界線の女達は特に理由もなく, 至る所で「当たり前の応酬」が起きているだけかもしれない。

やり場のない怒りが理由もなく適当な方向に向く。
実際そうだ。ムカついてる自分を分解していけば, そのムカツキはどうでもいい理由か, そもそも理由がないことが多い。でもムカつくからしょうがない。

自分の気持ちに従って救護の活動をする。
自分が救わねばならないと拳をあげる。気持ちが動く。それで他人は救われるのか。一方的な思いから動いているから, 時に独善的な救いかもしれない。でも救いたいと思ったからしょうがない。

決戦でエロエロドスケベ装束に身をまとう。
おかしいだろうか?そうは思わない。ドスケベは正義だ。気合が入るならば衣装にも拘りたい。「正装」と思う者は人それぞれだ。しばしばそれが周囲にとって, 変に思われるかもしれない。でも気合が入ってるんだからしょうがない。

あの世界線では時折おかしいと思える行動や言動をしばしば見受けられる。でも実際, 周囲を見渡してみればそんなもんばっかだ。ややもすると自分さえおかしいと思われる行動や言動をしているかもしれない。

当たり前の応酬をしているに過ぎないのだ。時にその当たり前は社会にダメージを与えることもある。そのような当たり前は直すべきである。しかし, その当たり前に気付けるかどうかも分からない。気付いて直すべき当たり前は直すべきだし, 直さなくても良いと思うならば, そこで産まれる反応は自分が背負わなければならない。だが, 知らないということが免罪符になるわけではない

なんというか, エデン条約にしろトリニティにしろ, そんな人間臭さを妙に感じるから, あの世界線は好きである。時に辛くもなるが。

この一週間は聖園に対する解像度が変化した。次の新刊にも活かせそうだ。

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