夏のトンネル_さよならの出口_

花に潮風


*こちらの短編は『夏へのトンネル、さよならの出口』の本筋に大きく関わるため、本編読了後にお読みください。



 花に潮風


 この町はどこにいても潮の香りがする。
 校舎二階の廊下を歩きながらそんなことを思った。
 開け放された窓の向こうに海が見える。東京に居た頃はなかなか見られなかった景色も、ここ香崎では日常の背景だ。自然が多くて、心なしかセミの鳴き声も東京のものより元気に感じられる。
 濃厚な夏の雰囲気に、しかし私はうんざりしていた。
 潮風は磯臭くて肌がべたつくし、セミの鳴き声は耳障りだ。おまけに虫も多い。この自然ばかりで何もないど田舎に、短くとも高校を卒業するまで居なきゃならないと思うと、憂鬱だった。
「緊張してる?」
 前を歩く浜本先生が、こちらを振り返って言った。
 私が首を横に振ると、浜本先生はよく通る声で「なら安心」と言って、ある教室の前で足を止めた。ドアの上に『2―A』とプリントされた表札が見えた。
 ここが、私の新しいクラス。
「じゃあ、合図したら入ってきてね」
 浜本先生が教室の中に入る。
 程なくして「どうぞ」と声がしたので、私は教室の扉を開けた。
 中に足を踏み入れた瞬間、生徒たちの遠慮のない視線が私に注がれた。品定めするような好奇の目がほとんどで、私は一層げんなりしてしまう。
 早く終わらせたくて、私は手筈どおり教壇に上がり、黒板に自分の名前を書いた。

『花城あんず』

 チョークを置き、回れ右する。すると浜本先生が、私が香崎に引っ越してきた事情をあれこれ説明し始めた。それが済むと今度は「じゃあ花城さんからも皆さんに一言どうぞ~」と私に挨拶をするよう促してきた。
 すっかり気持ちが萎えていた私は、早く教壇から下りたい一心で、率直な意見を述べた。
「いえ特にないです。っていうか座っていいですか?」
 浜本先生の表情が固まる。教室の生徒たちも、唖然としていた。
 私は、これでいい、と思った。
 この学校の生徒と仲良くする気なんて、さらさらなかったからだ。

 休み時間になると、多くのクラスメイトが私のもとに集まって質問をぶつけてきた。「東京のどこに住んでたの?」とか「前の学校ではなんて呼ばれてた?」とか。私はそんなありきたりな質問を、すべて「読書中だから」という理由で突っぱねる。おかげで昼休みになる頃には、私に興味本位で話しかけるクラスメイトはいなくなっていた。
 これで休み時間は心置きなく読書に集中できる。望んで得た孤独ほど居心地のいいものはない。……はずなのに、今朝から変わらず、気分は憂鬱のままだった。

 ――私の学校生活、本当にこんなのでいいのかな。

 漠然とした不安に胸がチクチクと痛む。そのせいで本の世界に没入できずにいると、「ねえ」と声をかけられた。
 顔を上げると、そこにいたのは不良っぽい感じの女子だった。
 たしか、川崎、という名前だったと思う。明るい髪色で目立っていたから名前を覚えていた。
「ちょっと下の自販機でチェリオのコーラ買ってきてよ」
 無理やり百円玉を握らされ、私はため息を吐きそうになった。
 こういった手合いはどこにでもいる。立場が定まっていない対象に指図して、上下関係をはっきりさせようとしているのだ。
 ここで彼女に従えば、多少のプライドは失うものの、変に目をつけられずに済むだろう。
 まぁ、従ってやるつもりは一ミリもないんだけど。
 どうしようかな、と思いながら私は適当な問答で時間を稼ぐ。それでしびれを切らした川崎は、ガンッ、と私の机を蹴った。
「いいから早く買ってこいっつうの!」
 カチン、と来てしまった。人を使いっぱしりにしようとする奴が、なんて偉そうに。
 私は教室を出て、指定された自販機でチェリオコーラとやらを買い、また教室に戻ってくる。
 満足げな表情をする川崎――の目の前でプルタブを起こし、私はチェリオコーラを一気飲みしてやる。
「ん。ごちそうさま」
 空になった缶を川崎の机に置いて、私は読書を再開した。
 川崎はポカンとした表情をして、すぐに激怒した。掴みかかってきそうな勢いだったけど、タイミングよく先生が教室に入ってきたおかげで、追及を逃れることができた。
 完璧だった。うまいこと落とし込めて胸がスッとする。一つ難があるとすればそれは、お腹がとても苦しい、ということだけだ。
 ――うう、戻しそう……。
 炭酸飲料の一気飲みは二度としない。私は密かにそう誓った。

 チェリオコーラを一気飲みした日から、川崎の嫌がらせが続くようになった。
 最初は肩をぶつけてきたり、事故を装って机の筆箱を落としてくる程度だったのが、次第にエスカレートして、教科書に落書きをしたり、掃除中に水をかけたりするようになった。
 それらの嫌がらせを、私はすべて無視した。川崎の存在を認知していないかのように振る舞った。川崎が嫌がらせに飽きるのを待っていたのだ。それでも限度を超えて嫌がらせが続くようなら、こちらも強硬策に出るつもりだった。
 限度は、川崎によって隠されていた私の上履きを、机に叩きつけられた瞬間に超えた。
 その上履きがびしょ濡れでなければ、まだ我慢できていたかもしれない。さらに細かくいえば、机に叩きつけた拍子に飛んだ水しぶきが、私の本を濡らさなければ、まだ耐えることができただろう。
 私はゆっくりと本を閉じ、川崎の正面に立った。
「参考までに聞きたいんだけど、こういうのって楽しい?」
「はあ? 楽しいってなんのこと?」
 川崎はすっとぼける。
 その後も私の言うことを正面から受け止めず、はぐらかし、どころか挑発も織り交ぜてきたので、私はとうとう我慢の限界を迎える。
「はぁ。もういいや。ちょっと殴るね」
「あ? やってみ――」
 私の拳が川崎の鼻っ柱を捉えた。
 川崎はコテンと尻もちをつき、目を丸くして私を見上げる。それから一呼吸おいて、つう、と川崎の鼻から血が出た。私はちょっぴり罪悪感に駆られる。少し力を入れすぎたかもしれない。でも、こういうのは中途半端が一番いけないのだ。これだけやれば川崎も反省するだろう。
 私は自分の席に着いて読書を始める。それから間もなく川崎は「ひんっ」と声を上げて、教室から出て行った。今までの悪辣な態度からは想像できない可愛らしい悲鳴に、私は思わず笑ってしまった。

 その日の昼休み。私は川崎を殴ったことを少しだけ後悔する。
「花城ってお前?」
 突然教室に乗り込んできた不良じみた男が、食事中の私のもとにやってきた。
 バツの悪い表情を浮かべて男に同伴している川崎の様子から察するに、こいつが川崎の彼氏らしい。たびたび彼女の口からその存在が仄めかされていたけど、まさか本当にいたとは。てっきり、虚栄だと思っていた。
「話がある。ちょっと来いよ」
 私は平静を装いながら心の中で舌打ちする。面倒なことになった。相手が同年の女子なら、弁舌と拳で押さえ込める自信がある。けれど、男子、それも理性的な話が通じなさそうな人種となると、さすがに分が悪い。
 この場を無事に切り抜けるチャンスを探りながら、とりあえず、私は男の指示に従い同行する。
 教室を出て廊下を進む。道中、川崎は不安そうに私のことをちらちら見ていた。何か言いたいことでもあるのかな、と思っていたら、昇降口から校舎を出たところで、小声で話しかけてきた。
「ねえ、謝っときなって」
「はい?」
「あいつ、怒るとやばいから、私に謝っとけって言ってんの。今なら許してあげるから」
「何それ。私が謝る意味が分かんないんだけど」
「いや、ほんとやばいんだって。あいつ女子でも普通に殴るからね」
「……あなた男の趣味悪すぎない?」
「なっ、それは……。ああもう、人が心配してやってんのに。どうなっても知らないから」
 ふん、と川崎はそっぽを向く。
 強がってみたものの、川崎の話が本当なら今の状況は相当まずい。何やら人気のない場所に向かっているようだし、そこで私は暴力を振るわれてしまうのだろうか。
 じわりと手汗が滲む。思い切って逃げ出そうかな。でも追いつかれるかもしれないし、もし逃げ切れたとしても、明日また教室に来るかもしれない。それではダメだ。
 ここでケリをつけないと。
 体育館裏に来たところで男は足を止め、私が川崎を殴ったという事実確認を求めてきた。
 私は決して弱みを見せないよう、淡々と男の質問に答えていく。
 心臓がバクバク鳴る。
 そして。
 ほんのわずかな隙を見つけて、私は男の顔面に正拳を叩き込んだ!
 ……つもりだったけど、拳は受け止められてしまった。
「いきなり何すんだてめえ!」
 やばい、と思った瞬間には男の反撃をもらっていた。平手が飛んできて頬に鋭い痛みが走る。
 一瞬、頭の中が真っ白になる。そして我に返った途端に、今度はお腹を蹴られた。
「うぐっ」
 思わず前かがみになる。横隔膜がせり上がって息が苦しい。昔、公園のアスレチックから落ちたときと同じ痛みだ。呼吸ができなくて、何も考えられない。
 だけど、そんな状態でも、嘲笑を含んだ男の声だけははっきりと聞こえた。
「花城ちゃん、もう調子乗らないでね。次はマジでぶっ殺すから」
 私の中で何かがプツンと切れる。
 こいつ、絶対に許さない。
 反射的に身体が動いた。私は男の腰にタックルを食らわせ、地面に押し倒す。そのまま馬乗りになり、ポケットから引き抜いたボールペンを思いっきりこめかみに突き立ててやった。
「ぎゃあ!」
 悲鳴を上げても私はやめない。徹底的にやらないとダメなのだ。もう二度と私に関わろうと思わないくらい、徹底的に。
 がむしゃらに攻撃を続けていたら、誰かが近づいてきた。見覚えのある顔。たしかクラスメイトの男子だ。私を止めに来たのかもしれない。だとするなら、近づけてはダメだ。私はまだこの男を痛めつける必要がある。
 私は「近づいたら刺す」ということをボールペンを振り回すことで示す。だけどそんな努力も虚しく、他の何者かによって私の身体は後ろからひょいと持ち上げられた。
「離して!」
 私は必死にもがいた。けれど不良の男がもう戦意喪失しているところを見せつけられ、次第に落ち着いてくる。
「……離して」
 身体を解放され、私は自由になる。
 私を後ろから持ち上げたのは、なんとも覇気のない男子だった。
 ――たしか、クラスメイトの……名前、なんだっけ。
 まぁ、どうでもいい。彼は心配するような声をかけてきたけど、私は冷たくあしらって保健室に向かった。頬がヒリヒリして、軽くめまいもしていた。最悪な気分だった。
 この学校に来てからろくなことがない。嫌がらせを受けるわ、顔を殴られるわ。何もかも、こんなど田舎に引っ越してきたせいだ。この町にはほとほと嫌気が差している。図書館は遠いし、大きな書店もない。虫ばかり多くて、潮の香りにもうんざりしている。
 ああもう、本当、最悪。
 鼻の奥がツンと痛む。悲観的になればなるほど痛みは増して、涙腺が緩んでいくのを感じる。
「前の学校でもあんな喧嘩ばっかりしてたの?」
 背後から脳天気な声がした。あの覇気のない男子が、わざわざ体育館裏からついてきたようだった。
 私は弱みにつけ込まれないよう、強気に返事をする。それでも彼は話しかけてくる。

 そして。
 彼は私にとって、とても興味深い一言を発する。
 言葉そのものに意味はない。
 その一言から垣間見えた彼の背景こそが、最大の関心だった。

「それ、どういう意味?」
 私は振り返って彼に詰め寄る。さっきまで私を支配していた悲壮感はどこかに吹き飛んでいた。
 彼は私の問いに答えず、その場を立ち去ってしまった。
 私は、香崎に来て初めて他人に興味を持った。

 私は彼に、あの一言の真意を問い詰めようと思っていた。
 放課後になり保健室を出て教室に向かったけど、そこに彼の姿はなかった。すでに下校しているのだろうか。私は彼を追うため校舎を出る。そのまま校門を抜けたところで、彼の後ろ姿を見つけた。彼はもう、かなり遠くのほうにいた。
 私は彼の後ろを距離をあけて歩きながら、なんて声をかけるか考えていた。彼が発したあの一言の真意をストレートに問うても、またはぐらかされるだけだと思ったからだ。次は問い方を改めないと。
 そんなことに頭を悩ませているうちに、彼は駅を通り過ぎ、急に何もないところで辺りをきょろきょろし始めた。
 私はとっさに物陰に隠れた。別にやましいことはないのだけど、後をつけていることがバレるのが、なんだか嫌だった。
 彼はひとしきり辺りを見渡したあと、側にあるフェンスをよじ登り、なんと線路の上を歩きだした。
 一体どこへ向かうのだろう。人目を避けている様子から何か隠し事をしているようだけど。
 ……すごく気になる。
 私は引き続き彼の後を追った。もう呼び止めるつもりはなかった。彼がどこに向かうのかを知りたった。
 やがて彼は、線路脇にある木製の階段を下り始めていく。私もバレないよう後に続いた。階段を下りた先に現れたのは、苔むした小さなトンネルだった。
 彼は荷物を地面に置いて、トンネルに入ったり出たりを繰り返した。私は彼が何をやっているのかさっぱり分からなくて、ただ離れたところから眺めるしかなかった。
 しばらくして、彼がトンネルに入ったきり出てこなくなった。
 不思議に思い、私はトンネルの前まで足を運ぶ。トンネルの中は真っ暗で、先が見えなかった。彼が戻ってくる気配はない。
 私は地面に置かれた彼の鞄を開け、中にある適当なノートを引っ張り出した。
 彼の名前は、塔野カオル、というらしい。
「塔野くん、か」
 ノートを鞄に戻し、トンネルの奥を見つめる。
 すっかり待ちくたびれた私は、意を決して、トンネルの中に足を踏み入れた。
 しばらく歩くと、ぼんやりとした明かりが見えた。さらに奥に進んだ。そこで目にした光景に、私は言葉を失った。
 白色の鳥居がトンネルの奥まで連なっていた。壁からは、燃える松明が伸びていた。
 そして塔野くんは、こちらに背を向けて鳥居の向こうに立っていた。
 非現実的な光景だった。
 古いトンネル。白色の鳥居。燃え続ける松明。不思議なクラスメイト。
 何か、とんでもないことに巻き込まれているような気がする。でも、こんな非日常をずっと待ち望んでいたような気もしていて、私は無性に胸が踊った。
 私はゆっくりと塔野くんに近づく。
 声をかけようとしたところで、塔野くんはこちらを振り返った。
 彼は目を丸くして、だけどすぐ何かを思い出したように、私の腕を掴んで外に向かって走りだした。
「えっ、ちょっと!」
 突然の出来事に私は驚く。それでも、薄暗いトンネルの中、彼に腕を引かれて走る私は、どうしようもなくワクワクしていた。
 こんな高揚感は今まで味わったことがなかった。まるで世界のすべてが私に注目しているような、不思議な感じ――。

 ああ、そうだ。これが、この状況こそが、ずっと私が求めていた、特別な――。

 外が近づいてきた。
 トンネルの出口から吹き込む潮風に、何か壮大な物語が始まるような予感をさせられて。
 こんな田舎町も悪くないな、なんてことを私は思うのだった。


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