見出し画像

オススメって苦手、否定すると目の色が変わる人がいるから。

ネット上はオススメやノウハウで溢れている。noteにもたくさんのおすすめが溢れている。正直に言う。私はそれらが苦手である。苦手だなぁと思いながらnoteを使っているものだから、きっと損をしている。
しかし苦手なものは苦手だ。

知っているノウハウを、あなたにも知ってほしい。その感覚は私にもある。
 これだけは知っておきたい〇〇!
 私が勧める〇〇のノウハウ。

なんと言うか、その善意さや、まっすぐさが苦手である。キラキラと疑いのない感じが。文章のテンションでそっと身を引いてしまう。
ただ惹きつけられる気持ちもある。
ただ、読むならば、書いた本人が自分自身のためのアーカイブ目的な記録だったり、地に足がある文章の方がホッとする。
もしくは、明らかにカウントを増やしたくてやっています!って透けてるものの方がいい。プロだなと思う(あんま読まんけど)。

文章を書く側のテンションや立ち位置は、読んでいて思いのほか伝わってくる。同一のテーマで、自分の盲信に拍車をかけたい、背中を押してほしい時は、その熱が心地よい。
けれど、そうではない場合、なんだか居心地の悪さを感じる。


そして、「これは良いことだからみんなに伝えなきゃ」とまっすぐに人に物事を勧める文章、これが苦手である。
勧めるいうことに無頓着である人を、純粋に羨ましく思いつつ、一歩下がって見つめてしまう。
彼らの目の入らないところにいたい。


私はオススメそれ自体が少しだけこわい。

ただコミュニケーションとして、意思を伝えるということは、なにかをオススメするという部分がだいたい否応なしに含まれる。
だから私は、人に何かを伝えることが基本苦手であった。


その理由に大きく二つ浮かぶものがある。

一つ目は子供の時のこと。大人が最善と勧めてきている価値観を、自分の価値観で断る経験からだと思う。実直に勧めてくるものを断る=私にその気がなくとも、人格を否定することになりうるとそこで学んでしまった。
親相手に何回、私が言いたいことはそれじゃないと思っただろう。存在を否定したいわけでないのに、そう捉えられるそういう経験をした。
稚拙な言葉で、それを否定するがなかなか伝わらない。違う、私はそう言いたいわけじゃないのに。
とても、力がいるやりとりに子どものうちから疲れていた。

二つ目はある程度大人になった後のこと。
純粋に本心で人に良かれと思って勧めたことが、その人にとっては、地雷であり、なんでそんなこと言うのとひどく傷つかれたこと。その人のためであるのは、本当に本心だった。私なりに一番の最善の言葉を伝えた。
それがその人には豪速球だった。個人が良いと思うことも場合によっては暴力的であると知った。

多分、それらの経験から、私は伝えることに及び腰である。
言葉で伝えるということはこわい。

だから、高校生ぐらいまでは口数は少なかった。
ちゃんと自分で考えて、様々なものを考慮して確固として誰かに伝えてもいいと思ったもの以外は、言葉にしないようにしていた。(相手の価値観を否定しない部分でのやりとりは普通にしたけど。)
伝えるという行為がもたらす不安定さを避けたかった。

ただ医療の専門に行き、より高度な議論や意見交換をする場に参加するようになった時、それだとグループワークが進まないことがわかる。
誰もが正しいことを言おうとして沈黙する時間。

言葉でのやり取りの活性化のために、当て馬・叩き台として、思った言葉を稚拙でも出してみる。そういう必要性があるのを知った。
私が考えた最善と思うものを伝えるのではなく、話し合いの中で最善を導き出していくようなやり取りの仕方を知る。
誰かがこれが最善であると、確信を持ったものを伝えるのではなく、人とともに積み上げていく、そういうやり取りのあり方。

そう言うものの魅力を学んだ。一人の力より大きいものがそこにあると思う。

物事は流れていくもので、とまっている絶対はない。
人との関わりでその時その時の最善を見つけ出せる。私はそこに価値を置けるようになった。

・私が考えている事柄は、『現在の私にとっての』最善と思うこと
・それは他者にとってはいつだって最善とは限らない
・言葉は誰かの価値観を侵食し傷つけるかもしれない
・言った数分後の私には違う考えが生じている可能性もある
・けれど、思っていることを人に伝えることで最善がより最善となるやり取りが生み出される可能性がある
・人との関わりで生まれるそれはとても素敵なこと


それがわかってから、他者とのコミニュケーションは楽しいものになった。人と積み上げていくもの。



と言いつつ、やはりおすすめは苦手である。

・私が考えている事柄は、『現在の私にとっての』最善と思うこと
・それは他者にとってはいつだって最善とは限らない
・言葉は誰かの価値観を侵食し傷つけるかもしれない
・言った数分後の私には違う考えが生じている可能性もある

この前提事項は私の中だけのものである。
この人はそれを共通理解で持っていそう、そういう人とは安心してやりとりができる。けれどこれらについて、「そんなことはない、私が言うことが正しい」と言える人は世の中に多い。

これがベストだと言い切れる人。正直羨ましい。
純粋で真っ直ぐに、人のためになると信じている人。
絶対的な価値観を持つ人。

そして、その純粋さだからこそ彼らが持つ、触れてはいけないポイントに触れた時に、変わる目の色、それがなかなか苦手である。

相手の目の色が変わってしまうと、そのやりとりの多くは不毛に終わることも多い。それは本当に難しい。
昔はその不毛さもどうにかしたかったが、最近は「不毛も多様性の一部。」「そのままにするというのも選択のひとつ」そう思っている。
いやそう思おうとしている。そう思えるように彼らにはあまり触れたくないと、思うのだろうと思う。
どうにかしたくなって話し合いを重ねてしまうことは、疲弊するだけだけど。そのどうにかしたくて目の色が変わることは私自身も持っている部分だと思う。


そして、この『どのポイントに触れられた時に私は目の色が変わるか』は、自分が発言したり文章を書く時にも意識しておくといいんだろうなと思っている。私自身が不毛に陥らないために。未来は明るい方がいい。多くの人と変わり会えれば、いろんな可能性がある、気がする。

だから、私が今伝えたいこの内容を誰かに伝えた時、どんな一言を言われたら目の色が変わるか、考える。
激昂するか。しないで、この人の意見はそうなのかーと思えるか。なんで目の色が変わってしまうか。図星だからか、何か。
熱い血潮が沸くポイント。あえて、沸かしても、それでも人に語ろうとできるか。それ以外の方法があるか。

個人的には、敵がいる前提のコミュニケーションではなくて、落ち着いたところで語り合えるようになってから、思っていることを人に伝えたいと思う。
カッと燃えて、世間の波に合わせて言い殴りたくなることもあるけれど。
目の色が変わりそうな時は、少し時間をおいている。

誰かを傷つけるリスクがコミュニケーションにはある。こちらが正義と思っていても、正義は見方で変わる。他者を罰するためにあえて伝える、その選択をしているならばまだ、いいのかもしれない。けれど、人を傷つけても伝えたいことは、そこまで多く持っていない。

赤ちゃんで死んだ弟の話も、ある程度前向きな落とし所までたどり着いたから書くことができている。
他の小話も。

おかあさんの話は文章というより、吐き出すための行為として位置付けることで出している。排泄行為。そういう文章。私を揺らすための文章だ。
まあ、noteで書いている文章は、今の所は伝えるよりも、私のための文章である。

そのうち「伝えたい」と「どう書いたら伝わるか」を主題に置きながら、文章をまとめたいなぁと思っている。
ので、徒然にお勧めする・伝えることについて思っていることを書いてみた。


あんまり締まっていませんが、ここまで。



果ノ子


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?