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割と気楽記事。

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文章を書いていて、書きたい文章の深さにムラがあるので分類分け。明るいかはあれだけど、暗くはならない。より深いのは別マガジン。
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2018年5月の記事一覧

本棚が好き

家の本棚が好きだ。私は本の扱いは雑多なものだから、気づくと本の順番が適当になっている。 けど、ふとした時、掃除した時、その日の気分で本を並び替えて、好きな本の表紙がぴしっと揃う、その様を見るのが好きだ。 本が誇らしげに見える。 そして、本棚に入らなくて溢れた本を本棚の横に積むのも好きだ。絶妙な角度で重ねられているそれらを見るのが好きだ。 もちろん、本を集めるのも好きだ。 そして、本を手放すのも好きだ。 だから、わりと、売ったり寄付したりする。 自分がゆかりのある場所の

愛を知らないこども、無償の愛を知る

*間違って消したので再掲載です。すんません。 "誰も私のことを大切に思ってくれない。理解してくれない” そう子供の時に思うことがあった。 漫画やメディアから知った愛を思い浮かべて、"誰も愛してくれない"と学校の帰り道に呟いていた。 ・子供だって親に愛されないことがある。 ・世の中には、誰にも望まれず、愛されず、死んでしまうこどもたちもいる。 そんなのは、なんだかかなしい。 かなしい私は、子供のための仕事に就きたい欲を持ち、大人になって子供と接する仕事につく。小児看護師

幼年期の頃の親レベルで止まったまま、子供と接する親たち

昼「年取ったら変われない。」っていうのずるいを書いた。 その続きというか、最初に書こうと思った話。 大人の親としての成長って、子の手が離れる幼年期ぐらいで止まって、更新されない親がいるよねっていう話。 * 子供が赤ちゃんのころ、両親それぞれ、母親とは、父親とはを考えて過ごすと思う。この目の前の命と、家族との生活をどう過ごせばいいか、それなりに考えるのだろう。 目の前の命は、柔らかく脆くみえる。 その命を生かすためにも家族を守るにも、親としての成長が必要だ。 また成長

言葉を出した後のから寒さ

伝えるために発露した言葉が、キャッチされなかった時の ぽっかりとした気分は本当になんとも言えないものがある。 から寒さと、後から猛烈に背中から迫ってくるような恥ずかしさと。 自惚れた自分への罰を与えたいような気持ち。布団に入って、ひとまず顔を覆って電気を消した部屋に沈んで溶けてしまいたいようなもの。 けれど、大人になったから同時に知っている。 言葉はそのまま受け止めてもらえるものでも、そうない。 * 言葉には伝えたい・共感して欲しいの他に、ただ身の内から出したい。

大切なものは、目に見せたい

星の王子様が言う 「大切なものは目には見えないんだよ」なんて 甘ちょろすぎると常々思ってた。 前回の記事「愛を知らないこども、無償の愛を知る」 を書いてて(ど要約:仕事初めて以外に世の中無償の愛に溢れているのを知る。でも無償過ぎて気づかれない。けど愛がない世の中っていうより、あるのはいいね。) 最後読み直してて、感想でこう思った。 世の中に愛はあっても、無償の愛自体が転がってても気づかれないなら意味ないよなと…なんか物悲しい虚無を感じた。えーっと、なあ。 んで、その虚し

人とは何かを考えすぎて、あまり女ではない私。

私は生物学的に女性である。そして性別意識としても女性ではある。 ただ世の中の女性をみて。ましてnoteで、かくも女性は語るみたいな性をしっかり認識した上での文章を読んでいると、 私は「私は人間だ」とははっきり言えるけど、「私は女である」と 言いきりにくく思う自分に気づく。 男性にしろ、女性にしろ、性を生きることを謳歌している人たちがいる。 女性なら当たり前の楽しみを、さも当然にこなしていける人たち。 彼らは「自分は人である」と同等に「自分は女(男 )である」と胸を張れる

読み始めたエッセイが実は小説でガッカリすることがある

noteで読み始めたエッセイを最後まで読んでいて、ふとハッシュタグに #小説 とついているとなぜかガッカリする。 テレビをつけて、ふとやっていたドキュメンタリーにちょっと惹かれていたら青汁のCMだった時の感じに似ている。 さっきまで読んでいて受けた感銘さや、颯爽と感じたオシャレ感(あぁこんな人がいるのか)が、生の声でなく、修飾されたものであることに肩透かしを食らった気分になるのだ。 私の中でエッセイを読む理由と物語を読む理由が違うのかもしれない。 あえてエッセイと思わせ

無・休職中にnote始めた人、割といる気がする

noteを見ていて、フリーを機に、休職を機に、退職をしてという文を見ることが少なからずある。かくゆう私もそうだ。無職。 人は言えない書きたい気持ちが溜まって仕事を辞めるのか。 仕事をしていないと書きたくなるのか。 ただまあ物理的に時間の余裕がある時に書くことに向き合う時間を取れたらいいよね、なんて理由で使い始める。 人は暇だと思い出を振り返りたくなる、なんて言葉もある。 私がやっていることもそうだ。人生の振り返り。 正直書くということに時間を使う、不毛さも考える。 そも

SNSをどの私で書くか、職業人として書くか(+医療のシステムデザインもっとよくなれ)

SNSとリアル社会を合致して、このネット上で文章を書ける人たち。 多分リア充と言っていい人たち。その人たちが羨ましい。 そういう人はネットで本音を言っても、もしくは書き始めるという行為の前に誰かを傷つけない生き方が出来て来た人ということ。もしくは傷つかない何かを持っている人。 そういう人に見えるのだ。 表舞台を歩いていけるというのは、それだけで幸せだ。 私は、少し書いた親の宗教の話、この果ノ子という名前で書くかわからない諸々のリアルの難しいことがある。 だから、どこかで

スクランブルエッグはそれはそれでうまい

「覆水盆に返らずって言うけど、じゃあ溢れた水はどうすればいいのか」 そんな考察を10代の時にしていた。 そして、その当時テレビでオムレツの作り方をやっていて、それにつられて何回か練習していた。何回も失敗して食すことになる。オムレツ未満なスクランブルエッグ。 その経験で、あ、こう考えれば楽になる、と一つの詩を書いた。 失敗作も私たちは美味しく食べる他ない。 * 今のあたしは オムレツを作ろうとして出来上がってしまった スクランブルエッグ 今さらどんなに頑張っても 卵の