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銚子街道十九里#1

2023年8月8日(火)。
 嫁をパートに出し、娘を学童まで連れて行く。娘はぎこちない手つきで室内履きに履き替え教室に消えてった。私はペコペコと先生に頭を下げて扉を締める。ようやく一人になった。心の中のモヤモヤと自責の念に駆られつつも、直ぐさま自宅に踵を返した。
 昨晩ベロベロになりながらも必死に撮影道具一式を詰め込んだ一澤帆布のカメラバッグを担いで家を出る。もちろん後で文句を言われないように洗い物は済ませ、クーラーのオンタイマーを6時間後に設定してある。
 アパートメントから一歩外に出ると茹だるような暑さで、最寄りの駅まで歩くにもかなりの体力を消耗した。
 まずは電車で新京成線に乗り、松戸駅でJR線に乗り換えて我孫子駅まで向かう。ここで一旦下車し、10時15分発の布佐駅まで行く成田線を20分待つことになる。待ち時間20分! 長いなと思うだろうが実はこれも計算の内なのだ。ここのホームの立ち食いそば屋で、名物のから揚げそばをいただくためだ。食券を買う時に店員のおばちゃんから「うどんが切れておりまーす」と声をかけられたが、こんなところでうどんを食うヤツがいるものか。なにせここん店(ち)のそばはぶよぶよでうどんみたいに太いのだ。うどんもそばもあったもんじゃねぇ! なんて思いつつ食券をおばちゃんに差し出し、そのままの動線でプラスチックコップを手に取り、ウォーターサーバーで並々とお冷水をそそぐ。立ち食いそば屋での一連の立ち回りの美しい漢は、本当に見ていて惚れ惚れする。まさに男の中の漢であろう。かく言う私も自分で言うのもなんなのだが、本当に立ち食いそばの所作が美しい漢だ。まだ2、3回しか立ち寄った事のないアウェイのこの店で、ここまで美しく振る舞える自分がこわい。店員のおばちゃんも負けじと一秒でも早くと私にから揚げそばを提供した。プロとプロとの真剣勝負がそこにはあった。

 カウンターの端っこに丼を置き、まずは名物のから揚げを裏っ返し、すみによけてぶよぶよにする。麺と黒くて塩っぱいスープだけをすすり上げる。そしてスープをある程度吸わせた主役のから揚げをガブリとやる。ベビースターラーメンを思わせる焦げた醤油の風味が鼻をガツンと突き抜ける。あゝ、やっぱりこの店に寄って良かった。あっという間に完食し、キンキンに冷えたお冷を2杯ゴクゴクと飲み干して店を出た。書いてて気がついたがこれ以上《から揚げそば》に行数を割き過ぎると食レポブログになってしまう。なにせまだスタートの布佐駅にも着いてないのだ。スパっと食い終わり時刻は10時10分、あと5分で成田行きの電車が来るという絶妙なタイミングで店を出た。
 毛穴じゅうから吹き上がるカツオ出汁と醤油の風味を一穴一穴押し殺して、何事もなかったようにクールに成田線に乗り込む。車内はガラガラで冷房がキンキンに効いていた。かいた汗を冷房で乾かす、これを電車の乗り換えの度に繰り返す。すると私の背中は白く塩を吹く。思わず紀州梅かよ!と自分でツッコミたくなる。
 東我孫子駅、湖北駅、新木駅と駅を一つ進むたびに車窓から都市感は薄れ、ぼくのなつやすみ的な田舎の風景に変わって行く。
 もう何度も下車した布佐駅のプラットホームにまた足を踏み下ろした。改札を抜けて、まずは体内の老廃物全てを出すために駅のトイレに寄る。途中でガチガチの白人とすれ違うが、はて? ここらに観光名所などあったかと考える。ない。
 昨日、飲み過ぎたためにお腹の調子が悪い。休日前の開放感でついやらかしてしまった。もちろんパフォーマンスや撮れ高に直接影響するレベルである。だがしかし、汚い話ここで大小出し切れば目標の安食駅までなんとかなるだろう。狭い大用トイレはタイガー戦車のコックピットのように蒸していた。(ちなみにタイガー戦車に乗ったことはない。)
 トイレで大量に汗をかき、全身が薄く汗でコーティングされている。腕からは水疱が吹き出ている。ウェットボーイズ状態になってしまった。トイレから駅の連絡通路に出ると、この世界が涼しくさえ思えた。が、そんな訳はない。

 布佐駅前は変わっていた。東口の真ん前の土地は買収され、土は掘り起こされていた。ブルーシートがかけられ、何かが建とうとしている。次に来るときは何が建ったのか答え合わせができるだろう。いや、もう来ないか。
 一応、鮮魚街道まで出て、利根川を目指した。後ろ髪を引かれて、なんとなく後ろを振り返ると、蜃気楼で揺らぐ鮮魚街道がまっすぐと江戸川に向かって伸びていた。

 どんつきの利根川土手に登り、私はいつもと逆の方向に歩き出した。3回の撮影行で鮮魚街道の旅は終わった。今度は鮮魚が運ばれたこの利根川を銚子まで下ろうと思う。つまりこの利根川が太平洋に流れ出るまでの道程を進むのだ。その道を銚子街道という。布佐河岸に標識が立っている。海まで76 .00キロメートル =19.352 里。

 軽く言い出したが、これはかなりヤバい旅になる。私のシミュレーションによると全道程を数回に分けて行く場合、利根川沿いに走るJR成田線しか頼るものが無いからである。
 布佐–安食、安食–滑河、滑河–下総神崎、下総神崎–佐原、ここから利根川に沿って線路が続くので一駅づつ体力次第では二駅間を進もうと思う。そりゃあもう鮮魚街道とは比べ物にならないほどスケールのデカい漆黒の田舎が口を開いて待っている。

 利根川に沿って下る国道356号線が銚子街道である。つまり、利根川土手か、この国道を歩いていれば自動的に銚子までたどり着くのだが、それだと景色がビタイチ変わり映えしない。国道は旧街道を利用しているので、もの凄く狭く交通量が激しい。大型トラックがビュンビュン掠めるので、身の危険を感じ落ち着いてカメラなんぞ構えていられない。というかそもそもこの道の設計上、人が歩くことを想定していないのではなかろうか。なので、遠回りになるが土手と国道をなるべく回避して下道をゆっくりと歩くことにした。
 木下はやっぱりなかなかに見応えのある町だった。20年ほど前に近くの将監川でブラックバス釣りの帰りに寄った時に雰囲気のある町だなぁとなんとなく感じていたのだ。江戸時代から木下街道の起点として栄えた街である。元々は木下周辺の木材を運ぶことから木下(きおろし)と名づけられたとか。銚子沖で獲れた魚貝類は利根川を通ってここ木下まで舟で下り、荷を積み替えて陸路で行徳まで運ぶ。そこから再び舟に載せ替えて運河を使い江戸まで運ぶ。通し馬が可能で陸路が短い分、後発の鮮魚街道が有利だが、利根川から江戸川まで行く機能は全く同じである。歴史も古く、街道の大きさもこちらの方が断然大きい。県道としてほぼ現存している。
 なので旧家も多く、銀行も千葉ローカルの銀行は大概揃っている。地図も見ずにふらふらと街を散策しながら歩いていると、どんどん利根川から離れて迷子になってしまった。Googleマップ上の現在自分が向いている方向が常にいい加減で間違っていることに早めに気がついてよかった。慌てて元の道を引き返す。

 とりあえず木下駅まで利根川とJR成田線は平行している。しかし、利根川は東にゆらゆらとカーブを描きつつ銚子まで遡るのに対して、JR成田線の線路は木下駅を過ぎた辺りからゴゴゴと南下する。銚子街道と成田線が離れてしまうのだ。つまりここから先はどんなに辛くても途中でギブできない。安食駅まで逃げ道がないのだ。
 一旦、土手の見える位置まで戻り、再スタートするとやはり土手の近くの景色は面白くなかった。この大きなコースアウトは自分なりに分析すると撮れ高を優先しての結果だった。あとは持ち前の方向音痴か。

 銚子旅館という鄙びた宿を過ぎた辺りから町の雰囲気は急に寂しくなる。閑散とした住宅街の外れに木下東3丁目公園という公園があったので休憩した。まだそんなに疲れてはいないが、この先かなりの距離が待っている。公園なんてないだろうから、足をマッサージしたり、持ち物を整頓したり、汗を拭いたり15分ほどゆっくり休憩できた。
 しばらく歩いて気がついたのだが、布佐のセブンイレブンで購入したハンドタオルをベンチに忘れてしまった。368円もしたのに。でも、もう取りには戻れない。
 ここから単調な田舎道が続く。歩けど歩けど変わらない景色というのはスナップ写真を撮っていると非常に辛い。さらに目の前には黒い雲が立ち込めている。ありゃ絶対雨雲だろう。その雨雲に向かって歩いているのだ。


 川の近くは蒸し暑く、草の蒸した臭いがキツい。ひたすらに広大な田んぼは歩く距離感を麻痺させる。たまにバッタと追いかけっこしたり。いや、俺の進む方向にしつこく逃げるなや。なんかバッタストーカーみたいになっとるやないけ。なにより辛いのは蝉の大合唱。やがてその鳴き声は脳内にまで入り込み、長閑を超えてサイケデリックサウンドになりつつある。ギラギラの太陽ですっかり熱燗になった最後残り1cmのポカリを飲み干した辺りでいよいよヤバくなってきた。自販機で新しい飲み物を買わないと危ない。しかし、このまま誰もいない川べりを歩いてもゴールの駅までコンビニは無い。自販機も見渡す限り無さそうだ。少し遠いが思い切って国道に出ることにした。

 そう、写真どころではない。
 今、私は命の危険に晒されているのだ。


 1キロ先に「JA西印旛 とれたて産直館 栄店」という施設がある。コースから思いっきり外れてしまうが、この先のことを考えると選択の余地はない。営業していなくても周りに自販機くらいあるだろう。しばらく歩くと遠くに営業中の赤い旗が見えてきた。幸せの黄色いハンカチばりの感動がこの赤い「営業中」にはあった。到着するとまずは挨拶代わりに3台ある自販機から水を購入し、パリテキサスのトラヴィスばりにゴクゴクゴクゴクゴクと一気に飲み干した。勢い余って少しTシャツにもこぼしたがお構いなしだ。
 なんとか一命は取り留めたのでオレンジ色のド派手な建物に入るとクーラーがギンギラギンに効いていた。いかにも野菜や特産品を探しているフリをして施設内をゆっくり3周した。店員のおばちゃんが3人、特に何をやるでもなく佇んでいる。入り口付近にはお盆用の墓参りセットが相場より少し高く売られていた。一旦店を出る。汗も引かせていただいたので、お礼にと今度はスポーツドリンクを購入した。
 駐車場横の木製のテーブルベンチに座る。木の端が腐って崩れかけているのでなるべく真ん中に腰掛けた。スニーカーを脱ぎゆっくりと足をグーパーした。隣りの駐車場ではおばあちゃんが車から忙(せわ)しなく出たり入ったりを繰り返し、花やらなんやらお盆用の備品を購入していた。それら4組ほどを見送ったあと、私は徐ろに重たい腰を上げた。


 再び銚子街道に戻る。足は完全に復活していた。そうなると色気を出していい感じの細道を歩きたくなる。水辺の町はどうしてこうも細い道を作るのか。と、突然目の前に若い猫が飛び出してきた。足元だったのでびっくりする。兄弟なのかもう1匹も追っていく。それを見守るように優しそうなおばあちゃんが餌箱を持って歩いてきた。この暑さなので町行く人と遭遇したのは初めてだった。
 おばあちゃんはなんの疑いも無く私に挨拶してきた。私も「生後半年未満ですかね?」と笑顔で返した。
 やっぱり、国道や土手を歩いていてはダメだ。その時強く思った。
 疲れるあまり歩いてゴールに着くことが目的になっていた。何のためにカメラをぶら下げて歩いているのか。
 
 黒い雨雲はいつのまにかやり過ごしたが、突然雨が降ってきた。空を見上げると近くに雨雲はないように見えた。折りたたみ傘は持っていたが出すのも傘が濡れるのも面倒なのでコンクリートの短いバイパストンネルで雨宿りした。5分も経たずに雨は止んだ。
 川沿いの町も終わり、中洲を越える道も複雑になったので土手を歩くことにした。土手の階段が現れたら休むという技を覚えた。公園を探さなくても気軽に座って休憩できるし、そもそも周りに誰も人がいない。ぼーっと利根川を見ている人になればいいのだ。


 安食の町が十分近づいてきたので、一旦土手から離れ、ゴールの安食駅まで歩くことにした。
 土手を降りてすぐに鰻屋が2軒。結構有名なのだろうか。残念ながら腹は減っていない。逆にから揚げそばと暑さで胸焼けをしているぐらいだ。
 国道356号線は歩道も無く、とてもじゃないが危険で歩けない。鯨のようなデカさのトラックがギリギリ横を猛スピードで走り抜けるのだ。並行に続く裏道を歩いた。安食の裏道はなかなか落ち着いた雰囲気で、車通りもなく家並みも古くていい。近くにある謎の高台が気になったが、次回来る時のお楽しみとしよう。
 いつの間にか一度は離れ離れになったJR成田線の線路と並行に歩いていることに気がついた。そうなると気になるのは電車の時刻表である。なにせ1時間に2本しかないローカル線である。調べると15時56分に我孫子行きが来る。まだ20分以上ある。余裕を持ってちょうどいい感じだ。駅に着いたらベンチで汗まみれのカメラを磨いたり、ゆったりと読書をするのもいいだろう。
 気がつくと安食駅の駅舎を過ぎていた。私が歩いている方に改札口は無く、階段を昇り陸橋を渡るようだ。ふと、陸橋の下で帰りの鉄道ルートを検索すると家に帰るには我孫子駅に戻らずに成田駅から帰った方が全然近いことを知った。3駅分も東に歩いたからだろう。さらに成田行きの電車は15時46分に来るという。今の時刻はちょうど40分なのであと6分で来てしまう。慌てまくった。残りの力を振り絞り、階段を駆け上がって線路を越え、さらに転げ落ちるように駆け降りて改札に向かう。ちょうど安食ピープルたちが慣れた顔つきで駅の待合室からゾロゾロと出てくるタイミングだった。ギリ間に合った。田舎の電車なのに待ち時間が無く効率はいいが心臓に悪い。成田線に乗ると冷房でキンキンだった。
 向かいのフィリピン女性の横顔がどこか寂しくも美しく、見惚れてしまった。田舎に住む東南アジアの女性を電車で見ると浅田次郎原作、中井貴一主演の映画「ラブ・レター」を思い出す。そもそも千葉県の外房線で撮影されたと思うので既視感はある。
 成田駅から総武線快速に乗り換えるとキャリーケースを持った旅行者で電車は超満員だった。

 新しく購入したライカSLは全く問題なく使い倒せた。M9よりも断然使い勝手が良かった。ファインダーを覗きながら露出補正もダイヤルで簡単に出来るし、ピント確認も背面のジョイスティックを押し込むだけで画像が確認できる。何よりこのダイヤルの位置が絶妙に使いやすい。シャッターを押すとプレビュー画面が出てきてしまい、もう一度押してキャンセルするのにまごついたが、これは設定でなんとかなりそうだ。バッテリーはこの炎天下の中、ほぼつけっぱなしで1本半。3本持ってきてるので今後もこの体制で問題ないだろう。不安なら予備バッテリーを持ってきて、歩きながら充電すればいい。
 少し残念なことといえば、M9よりデカいのでスナップの時に相手に悟られるのではないかという点である。私はキャンディッドなストーレートフォトグラフィーを撮影したいので、この違いは大きい。

 次回は安食駅からスタートする。滑河まで歩く予定だ。いつになるのやら。

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