神は創造しても操らない
先日、茂木健一郎先生 @kenichiromogi との動画が配信された。40分以上もの長い動画を多くの方に見ていただいたようで、大変恐縮である。茂木先生のお力を感じた。私が一人でやっていたら、再生回数は3だ。
https://www.youtube.com/watch?v=gFOvk-BtpMI
しかし、多くの方が、私のつたない喋りを我慢したかと思うと、大変申し訳ない。何よりも申し訳ないのは、アホな説明をしてしまったことだ。ハーフミラーの説明では、描いたハーフミラーの角度が違うし(あれは90度回転させなければいけない)、量子の波動性と粒子性では、粒子の波動性と粒の性質などと言ったりしている。
正直のところ、申し訳なさより恥ずかしさの方を感じている。
そんなことはどうでもいい。
ありがたいことに、茂木先生、そして視聴をしてくださった方々から、いくつかのコメントを頂いた。それを査読と思って答えてみる。
(もし、こちらの記事が私との初めての接触だとしたら、一つ前の記事を読むことをお勧めしたい。長い記事ではあるが、以下の話の母体である。役に立つと思う。)
https://note.com/hataokahironori/n/nfc4a90025690
・非アルゴリズムの創発
・時間の矢
・生命意識の範囲
・擬似乱数チューリングテスト
非アルゴリズムの創発
非アルゴリズムはどこにでも出現する。量子が波動から粒子にジャンプするときもそうであるし、粒子同士の衝突にも出現する。粒子同士の衝突で出現する非アルゴリズムを説明していなかった。例えば、粒子が点粒子ではなく幅を持った粒であると仮定する。衝突の反応は計算可能である。しかし、その計算結果が実在することはない。アルゴリズムは実在の近似値しか示さない。アルゴリズムと実在の差にあらわれるのが非アルゴリズムである。ボールとバットがぶつかった時にも、僅かであるが非アルゴリズムは出現するという具合だ。
次に、粒子が幅を持たない点粒子であった場合を仮定する。非アルゴリズム的量子像は大変相性が悪くなるのだが…。この場合、非アルゴリズムが出現するのは実在空間の距離であると見込む。例えば、プランク長の正確な距離は実在でゆらいでいるため、アルゴリズムはいつも近似値をとるということである。
時間の矢
時間反転と運動反転は同一でないという説明にハーフミラーを用いたが、もっと抽象的に整理した例を挙げる。
ここに二つのボールがある。両者をぶつけると、両者は跳ね返る。非アルゴリズムは二つのボールの移動、衝突の各点に都度、現れる。例えば、衝突した接地面のゆがみを記述する実数の実在の姿は、非アルゴリズムによりわずかにズレる。そして、このズレを導くアルゴリズムは存在しない。つまり再現することができない。
では、時間を反転してみよう。ボールは衝突する前の状態に寸分の狂いもなく戻る。ここには非アルゴリズムは出現しない。時間発展におけるボールの移動、衝突の各点に都度現れていた非アルゴリズムを、時間反転のアルゴリズムが正確に追うのである。さらに厳密にいえば、時間反転をたどるボールは元居た場所に戻るために、非アルゴリズムの値を調整して運動するといえる。
次に、運動を反転してみよう。運動を反転するというのは、この実験系のすべてのベクトルを反転するということである。ここで両者のボールに与えらえた条件は運動の反転だけである。どこへ戻るべきか、というアルゴリズムは与えられない。では運動反転したボールを見る。二つのボールの移動、再衝突の各点に都度非アルゴリズムが出現する。そしてここで出現する非アルゴリズムは完全な乱数であるので、時間反転の時と同じ動きを取らない。つまり、運動反転したボールの値は実験の最初に与えられた値からズレるということである。
生命意識の範囲
岩、プランクトン、クジラ、地球…どこまでが意識の領分なのだろうかという問題だ。ここでいう意識は、生命の範囲で定義したい。つまり、意識的であるということは生命的であるということ。例えば、岩に生命はあるか、地球は生きているかという問いに対し、哲学的な方法や、神秘的な方法を駆使して答えないということである。
動画中で、意識の自由は非アルゴリズムによってもたらされると言及した。これは、自然に対し恣意的に介在するという意味の自由意志と切り離していただきたい。つまり、我々が感じる意識の自由は自然に与えられた自由と等価であるということだ。では、この自由が等価であるのならば、意識の境界線はどこにあるかというのが最大の問題である。
まず、大きい範囲から行くと、意識は系が保存されるところに創発する。つまり、空気に意識が創発しない。しかし、これでは岩や地球にボールペンに意識が創発することになる。
では範囲をさらに縮める。意識は系のアルゴリズムが系の内側で発生する非アルゴリズムの影響により変化する範囲に創発する。例えば、道端の石ころが、石ころの内側で発生した非アルゴリズムの影響によりダンスしたり、地球が突如、万有引力や、重力場のアルゴリズムから自発的にズレたりという具合である。しかし、これではAIが自己の機械的不備、それも非アルゴリズム的な故障により、アルゴリズムを変化させたら、AIに意識が創発することになる。
ではもっと範囲を狭めよう。アルゴリズムに自由を与える非アルゴリズムを系が機能として活用するところに意識は創発する。これで、AIの機能として組み込まれていない故障には意識は創発しない。それでも、まだ十分でない。例えば、道を歩いている時、その真ん中にポールが現れたとする。ポールに右を通るか、左を通るか、どちらを選ぼうかと思考する意識は、非アルゴリズムに満ちている。では、AIに同じことをさせてみよう。そして、我々はこのAIの選択にある特殊な仕組みを施す。それは選択の決定が自然音に左右されるということである。これは、選択的思考と同じように非アルゴリズムに満ちている。となると、これでは自然を活用するAIには意識が創発することになる。
ここで、初めに定めた範囲に戻ろう。意識は系が保存されているところに創発すると定めた。つまり、自然音の非アルゴリズムは系として保存されていなければ意識が創発しないということである。では焚火を用意し、パチパチ音で選択するAIを作り、この焚火をボックスの中に保存すればいいのかというとそうではない。一見焚火という系は保存されてはいるが、焚火の内的な系は全く保存されておらず、そして、一つの系として、焚火の系とAIの系が統合されていない。系が統合されていない以上系が保存されているともいえないため、意識は創発しない。それと比べ、生命の系の保存の仕方は大変優秀である。意識のレベルは違えど、肉体を維持することより、意識のための土台を築いているようにみえる。
ここで、いったん地球の意識について、真剣に論じてみよう。注意してほしいのは、私が地球に当てはめる意識は私がここで定義してきた意識のことである。では、ケプラーやニュートン、アインシュタインにかなわないまま、太陽の周りを公転する地球と宇宙空間に放り出され、哀れにも慣性の法則に支配された宇宙飛行しの違いはどこにあるのだろうか。宇宙空間で自意識のまま暴れる宇宙飛行士と地球が引き起こす地震の差はどこにあるのか。
地球の地震は坂道を転げ落ちる岩の振動と等価である。これが、宇宙飛行士との差である。つまり、地球は一つの大きな系であるが、内的に抱える系は断裂しており、系が内的に保存されていない。これを簡単に表現すると、地球には神経が通っていない。複雑に言うと、意識が創発するほど内的な系が保存されていないというわけである。焚火とAIの関係性にしてもそうだが、この内的な系の保存も意識創発のための範囲の一つであろう。
ここまで、意識が創発する範囲を考察してきたが、この議論はまだ未熟であるため、慎重に議論していきたい。また、再三の注意であるが、ここで言及しているのは、意識の自由度ではなく、自由度のレベルに関係なく意識が創発することが可能な範囲の定義である。
加えて、ここまで非アルゴリズムを中心に考察してきたが、アルゴリズムのあり方も意識には重要であるかもしれない。例えば、DNA、生命的成長、増殖などのアルゴリズムは無生物には見られない点で面白そうな論点があるだろう。ウイルスなどもその対象だ。
また、もし、ここまでで、「では、10年前の私と今の私の意識的連続性はどうなのか」と疑問に思われた方は、前の記事で長々と書いた「系の支配」という項目を見ていただければと思う。少しはその疑問も和らぐようなことが書かれているのではないかと思う。
https://note.com/hataokahironori/n/nfc4a90025690
擬似乱数チューリングテスト
人間か機械か、つまり、意識があるか、ないかのテストであるが。撮影中は思い浮かばなかった。撮影後、これはどうだろうという実験を思い浮かべたので、書き記しておく。
ここに意識があるようにふるまうAIと意識ある人間がいる。彼らの差は、それぞれが持ち合わせる乱数が擬似的なものかそうでないかである。自然音と機械、先ほどで言えば焚火とAIのコンビの存在を一旦置いておく。
いま、現在量子コンピューターなるものが開発されていると聞く。では、これを活用して、両者の振る舞いが乱数か擬似乱数かを解いてみるのはどうだろうか。擬似乱数は結局のところ複雑なアルゴリズムである。量子コンピューターのパワーなら解けそうだ。例えば、実験はこうである。機械は機械同士、人間は人間同士で会話をさせる。その会話を量子コンピューターが分析し、アルゴリズム的か、非アルゴリズム的かを区別する。量子コンピューターが停止し、そこで出てきたアルゴリズムの通り、その後も会話が進行しているなら、機械同士の会話といえるだろう。ただ、ここには、停止性の厄介な問題が含まれている。量子コンピューターが稼働し続ける限り、意識があると推定することができるのである。これに太刀打ちする術はない。また、機械同士、人間同士といったが、そうでなくとも、複数の役を演じることを両者それぞれに求めてもいい。
では、ここで、この実験が抱える問題点をしっかりと炙り出して整理しよう。この実験には停止性の問題があると先にも述べたが、例えば、人間側が、機械の真似をして、つまり、量子コンピューターにアルゴリズムがあると誤解させて量子コンピューターを停止させたとする。さあ、ここからが戦いだ。量子コンピューターが導きだした、アルゴリズムの通り、人間はアルゴリズムのような会話を続けなければならない。もし、量子コンピューターのアルゴリズムと、人間側の会話が違えば、量子コンピューターは計算をやり直さなければならない。ここで注意しなければならないことは、人間側はアルゴリズムのような会話を繰り広げてもいいが、アルゴリズムの会話をしてはいけないということだ。例えば、会話アルゴリズム生成器の表示する言葉を述べるだけに終始してはならないということである。理由は単純で、アルゴリズム生成器の言葉のみ述べる人間は意識が主体でなく、アルゴリズム生成器のアルゴリズム主体の道具になってしまうからである。つまり、これは機械が会話していることと等価である。ジョン・サールの「中国語の部屋」に似た構造の問題である。また、当然同じ言葉を繰り返し続けるなどという、意識的に構築できる完全なアルゴリズムも禁止技にしたい。机上に書き記すことのできる情報に意識は宿らない。だが、百歩譲って、この禁止技と対決しても、量子コンピューターにわずかに分がある。なぜならば、量子コンピューターが機械であると判断している限り、量子コンピューターはその確認のために自らが導き出したアルゴリズムを永遠に、聞こえてくる会話と照らし合わせるからだ。もし聞こえてくる会話がアルゴリズムであれば、永遠に停止することはない。ここにも停止性問題は顔をだす。人間なのか、機械なのか、どうやっても我々は推定的判断をするしかない。
次の問題は、機械が非アルゴリズムを獲得してしまった場合である。焚火とAI、AIの故障などがある。では、焚火とAIからいこう。量子コンピューターが勝つためには、AIが焚火を利用するというアルゴリズムで動いているということを解き明かさなければならない。ここで導き出されるアルゴリズムというのは、近似的で不完全なアルゴリズムであろう。しかしながら、自然音に頼る以上、アルゴリズムのズレの幅は統計的な幅で収まると考えられる。ただ、もし焚火のもとに隕石が落ちてきたらと考えると、統計的な幅には限界を感じる。一方、自然音ではなく、人工音、例えば町の音に反応するアルゴリズムはどうだろうか。おそらくであるが、自然音より統計的な幅は広がるだろう。しかし、これは、AIが町の音という、意識が生み出す音に反応しているという点で、人間側であると判断していいだろう。町の音を利用するAIは、人間の意思に操られた機械と等価なので、実質的に人間側である。つまり、ここで問題になるのは、アルゴリズムのズレの統計的な幅の設定である。この問題は統計学に任せたい…
AIの故障にも触れよう。もし、AIの一部が故障したとなれば、そこでアルゴリズムは変化するが、その変化は故障の範囲であり、AIは故障を含めたアルゴリズムを遂行するだろう。量子コンピューターがこの故障という癖を見抜けるかどうか、これも、統計的な幅に頼らなければならない。
とりあえず、思いつく抜け道と対処を述べてきたが、これが果たして役に立つかどうか、また、言語のアルゴリズムを見抜くほどの量子コンピューターがあり、この実験に適用できるかもさらに考えていかねばならない。さらに言えば、意識にも癖があり、それが統計的な幅にどう影響するかも考えていかなければならない。
以上で一通りのレビューに対応したつもりであるが、どうだろうか。またのレビューを頂けると嬉しい。
Thank you very much for reading! There are still a lot of things to think about.