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図書館という場所

ある書店に勤めていたときのことだ。問い合わせを受けていた老年の女性客から、「あなたは、どうして本が好きになったの?」と尋ねられたことがある。何かの拍子に、「どうしたら、孫がもっと本を読んでくれるのか」という話になり、その流れで尋ねられたように記憶している。

そのとき、どう答えたのかは覚えていないが、ひどく無難でありきたりな回答だったと思う。何ということはない。ただ、家にも学校にも居場所がなかったからだ。

私が幼稚園の頃には、すでに家庭は荒れていた。父親は酒に弱い人間で、精神的に脆く、それでいて他者への攻撃を繰り返す人物だった。私が小学生の頃には仕事を休みがちで、当然家には金がなく、貧しい生活を送っていた。そんな状況のなか、追いつめられた母親はたびたびヒステリックな声を上げた。

家の中が地獄であったように、学校もまた地獄だった。私はいじめのターゲットになり、男子生徒からも女生徒からも攻撃にあっていた。見た目や容姿をあげつらわれ、「暗い」とからかわれるようなことは日常茶飯事で、ある時は校舎の裏側で集団に石の的にされ、目の上を怪我したこともある。ペアを組まされたり、グループを作るようなときには必ずあぶれ、それは中学に上がっても続いた。より陰湿に、より残酷になっていった。

家ではつねに酒の臭いと怒号が飛び、散らかり放題の2部屋しかない借家で一人膝を抱えていた。学校では、いつなんどき向けられるかわからない刃に怯えていた。表情を殺し、心を閉ざし、外界を遮断しながら一日一日を耐え伸びた。そのかけがえのないパートナーが、他でもなく本だった。

最初に図書館に通いはじめたのは、まだ小学生の時だ。家には、帰りたくない。遊ぶ相手もいず、公園で時間を潰そうにも、同級生に見つかれば間違いなくターゲットにされる。どこにもいけないし、いられる場所もない。そんなときにふと思い出したのが、市立図書館の存在だった。ここなら、お金のない子どもでも自分の足でたどり着けたのだ。

図書館へ足を運ぶと、そこにはひっそりした空気と、紙の匂いがただよっていた。「一生かかっても読み切れない」と思うほどに本が並び、その背表紙が静かにたたずむさまは、ひどくわたしの心を落ちつけてくれた。学校の図書室ならまだしも、市立図書館に一人で通う同級生はそういず、誰もわたしがそこにいることをとがめない。

誰もわたしを罵らず、からかうことも馬鹿にされることもなく、誰一人わたしを傷つけない。そこにあるのは、静かに並ぶ本だけだった。

以来、わたしは図書館に通いつめた。バーネットの『小公女』ではセーラの悲劇に涙を流し、『秘密の花園』では謎めいたお屋敷の秘密にどきどきした。ミヒャエル・エンデの『モモ』ではいくつもの大切な言葉と出会い、『赤毛のアン』もいいが、モンゴメリでは『エミリー』シリーズに夢中になった。江戸川乱歩の『怪人二十面相』シリーズでは、そのおどろおどろしい表紙と、明智小五郎や小林少年の活躍に目が離せなかった。

いくら読んでも、まるで飽きなかった。純粋に「面白いから」読んでいたものもあれば、家や学校での孤独をまぎらわせるために、ただ文字を追っていたものもある。教室という場所で、「休み時間に話す相手がいない」のを、「わたしは本を読んでいるのだ」というポーズでごまかしていただけに過ぎない。

だが、そんななかでもかけがえのない本との出会いはたくさんあった。必ずしも有名な作品ばかりを読んでいたわけではなく、コバルト文庫や少女小説もたくさん読んだ。小学生の高学年の頃からは赤川次郎に夢中になり、中学生になるとアガサ・クリスティをはじめ、海外のミステリーにも手を伸ばした。

ミステリー以外だと、特に印象に残っているのがトーマス・マンの『トニオ・クレェゲル』で、国内の作品だと太宰治の『人間失格』や中島敦の『山月記』に出会った時と同様、「これは、わたしのための本だ」とまで思った。ほとんど誰とも言葉を交わさない間、長い年月をかけて、一人で自分のなかに言葉を溜めていった。

世の中には、両親に読み聞かせをされたり、数多く絵本を買い与えられたり、書店や図書館に連れて行ってもらい、本と出会った人もいるだろう。そういった話を聞くと、ほんの少しの羨ましさがまるでよぎらないわけではないが、それでもわたしは自分で「本と出会ってきたこと」を否定したくない。

誰もが、望まれ愛され育ってきたわけではない。必ずしも、読み聞かせや「書店や図書館に連れて行ってもらったこと」で、本と出会った人ばかりではない。なかには、例え親の愛情があったとしても、あまり本への関心がないといったケースもあるだろう。

どんな出会い方でも、いいのだ。わたしが家や学校に居場所がなく図書館に通いつめていたように、「居場所がなくて、本や漫画に救われた」人は大勢いるのだろう。本や漫画ではなくとも、アニメやゲームでも好きなアイドルでもいい。例え、家や学校に居場所がなかったとしても、「好き」なものが、きっとその子を守ってくれる。わたしにとって、それが本だったというだけに過ぎない。

静かに並ぶ背表紙がたたずむその場所で、たくさんの本と出会ってほしい。同じ物語を、何度も繰り返し読むのも素晴らしい。わたしにとって本は、まるで海に流されたときに、必死で掴む流木そのものだった。疎外され、友人らしい相手もほとんどいず、世界中から「NO」を突きつけられているように感じていたときに、唯一の救いが本だった。どんな出会い方でも、どんな読み方でもいいのだ。

今でもわたしは図書館が好きで、月に数回は通っている。だが、あの頃は、かなりの頻度でそこにいた。今もきっと、いるのだろう。どこにも居場所がなく、図書室や図書館という場所に救われている子たちが。もし叶うならばどうか、その子たちに届けたい。「あなたは、悪くない」と。




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