見出し画像

「准教授・高槻彰良の推察」ドラマ感想ブログ

2018年11月、私は一冊の文庫と出会った。嘘を聞き分ける能力を持った孤独な大学生・深町尚哉と、民俗学のイケメン准教授・高槻彰良が出会い、コンビとなって怪異に立ち向かっていく。そう、『准教授・高槻彰良の推察』(澤村御影/角川文庫)だ。

はっきり言って、私は怖い話が苦手だ。ホラーやオカルトのたぐいは軒並みまわれ右したいほどで、そんな私がどうしてこの作品に夢中になったかといえば主人公の尚哉の存在がある。

尚哉は、幼い頃に青い提灯の飾られた祭りに行き、亡くなったはずの祖父と出会う。そこは、生きた人間が足を踏み入れてはならない場所だった。その代償として、祖父はこう尚哉に告げる。

「リンゴ飴を選べば、お前は歩けなくなる。アンズ飴を選べば、お前は言葉を失う。べっこう飴を選べば、お前は孤独になる」

幼かった尚哉は孤独という言葉の意味をよくわかっておらずべっこう飴を選び、その結果、人の嘘を聞き分ける耳を手にしてしまう。誰かが嘘を口にすると、途端にその声が歪んだように聞こえてしまうのだ。両親、クラスメイト、嘘を暴かれた人々は尚哉を遠巻きにし、やがて尚哉はあの日「孤独になる」と言われたように、人を寄せ付けず孤独な日々を送るようになる。

もし、主人公である青年がここまで孤独な青年でなかったら、この物語にこれほどまでのめり込まなかっただろう。

友人のいない学生時代を送ってきた尚哉は、大学に入学すると、ある人物と出会う。それが、民俗学の准教授である高槻彰良だ。高槻は、背が高く整った容姿をしており、おまけに都市伝説などを講義のテーマにしていることもあって、イケメン准教授として人気をはせていた。

高槻の声は明朗で嘘がなく、何の歪みもなく、驚くほど真っ直ぐに耳に届いた。

“不思議なほどに透明感のある声だった。男性にしてはやや音域が高く、マイクを通していてもふわりと柔らかに耳に届く。イケメンというのは、顔だけではなく声まで良いらしい。天は二物を与えすぎた。

でも──なぜだろう。あの声を聞いていると、なぜだか楽に息が吐ける気がする。”(1巻P19)

やがて尚哉がレポートに青い提灯の祭りについて書いたことがきっかけで、高槻の手伝いのアルバイトをするようになる。高槻は怪異に目がなく、また「隣のハナシ」というサイトを運営しており、そこに持ち込まれたさまざまな怪異を高槻とともに尚哉が解決していくのだ。

孤独だった尚哉は高槻と出会ったことで周囲に人の輪ができるようになり、同級生の難波や高槻の幼なじみの刑事・佐々倉、大学院生の生方瑠衣子とも関わりを持つようになる。やがて高槻が怪異を求める秘密が読者に明かされ、息を呑む展開が待っているのだ。

怪異をテーマにしながらも、人の思いや内側にあるものを描き、尚哉の成長と、高槻との絆に目が離せない物語になっていくのだ。私はこのシリーズにのめり込み、尚哉に幸せになってほしいと願い、新刊が出るたびにネットに感想を書き込むほどのファンになった。

そんな思い入れがあるこの作品がドラマ化すると聞いたとき、正直に言ってしまうと不安はあった。高槻彰良役はHey!Say!JUMPの伊野尾慧さんで、深町尚哉役はKing&Priceの神宮寺勇太さんという方だった。

一人で本ばかり読んでおり、日頃からテレビはそれほど見ず、ましてや音楽番組はまず見ない生活をしてきた。どれほど人気のあるアイドルだろうとアーティストだろうと、ほぼ顔も名前もわからないありさまだった。そんな私の前に、このお二人が現れたのだ。

伊野尾慧さんを初めて見たときは、高槻を演じるには「ずいぶん若い方だな」というのが第一印象だった。だが高槻は30代だが20代に見えるくらいなので、別段気にはならなかった。とても柔らかい顔立ちの方で、優しそうだなというのが最初の印象だ。

そして、見た瞬間に息が止まりそうになったのが深町尚哉役の神宮寺勇太さんだ。「尚哉がいる」、そう思った。メガネにパーカー姿の、まるで原作から抜け出てきたようなナイーブな青年がそこにいた。

このお二人がどんな芝居をするのかをまるで知らず、さらに長年思い入れのある作品だけに、どうしても一抹の不安が拭えなかった。それが一転したのは、ドラマの第1話だ。

第1話は、原作の2巻に収録されている『学校には何かがいる』を元にした、コックリさんがテーマの話だ。いったいどんな高槻になるのか、どんな尚哉の姿を見せてくれるのか。かすかな不安とともに、ドラマのオンエアはスタートした。

そこには、柔らかく中性的で、穏やかな声の高槻がいた。一言で言ってしまうなら、伊野尾慧さんの高槻は「品が良い」というのがしっくりくる。周囲の人に対して思いやりがあり、一つ一つの仕草が丁寧で、愛されることを素直に受け入れられる人物に見えた。その人がそこにいるだけで、周りがパッと華やぐものを持っていた。

そして神宮寺勇太さんは、驚くほどに尚哉そのものだった。真面目で繊細でナイーブな青年を、抑えた演技で表現していた。目の動きや、表情だけで魅せる役者なのだと感じた。

第1話の視聴を終えた私には、「大丈夫だ」という思いがあった。

脚本、音楽、演出、どれを取っても素晴らしく、EDのHey!Say!JUMPが歌う「群青ランナウェイ」の入るタイミングも最高だった。何よりも、伊野尾慧さんの高槻と、神宮寺勇太さんの尚哉は完璧だった。このコンビを、ずっと見ていたい。そう思った。それから毎週、土曜日が訪れるたびに幸せなひとときが流れた。

回を追うごとに尚哉の同級生である難波(=須賀健太)や、高槻の研究室に通う大学院生の瑠衣子先輩(=岡田結実)、そして高槻の幼なじみである健ちゃんこと佐々倉(=吉沢悠)の活躍の場面も増えていった。

もちろん、原作とドラマでは異なる設定も多々あった。ドラマにはオリジナル要素として健ちゃんの母親がいる佐々倉古書店が登場し、個々のエピソードでは設定そのものが変化しているケースも珍しくない。だが、その違いがまた魅力的なのだ。

例えば、第2話では原作では呪いの藁人形の相談を持ち込むのは民俗学の講義を受講している女生徒2人なのだが、ドラマでは同じ大学の陸上部の選手が被害に遭い、その姉が高槻に相談を持ちかけている。同性の友人から同性の姉妹へと変化したことで、この物語のラストで尚哉が聞き分ける〈嘘〉がより凄みを増すのだ。

友人とは違い、家族からは逃れられない。その呪いを、見事なまでに映像にのせて見せてくれる顛末となった。

ドラマで唸らさせられた場面はいくつもあるが、強く印象に残ったのは第4話だ。この話は、2巻の『スタジオの幽霊』が元になっている。パッとしなかった時期を経て霊感女優として再ブレイク中だった、藤谷更紗(=市川由衣)の芝居に込められた余韻がいつまでも残った。芸能界という厳しい世界で、女優が年を重ねていくことの世間の風当たりに対する、胸のすくような覚悟を目にした気がした。

7話では尚哉と同じ力を持つ遠山(=今井朋彦)も登場し、さらに高槻の背中の秘密も明かされ、尚哉は自分の過去に立ち向かう決心をする。そして、いよいよ最終回の8話へと続くのだ。

このドラマはシーズン1が8月から地上波で、シーズン2が10月からWOWOWで放映される。そのシーズン1の最終回が、つい先日放映された。そこで感じたことを、正直に語ってみたい。

最終回では、尚哉が高槻や佐々倉とともに尚哉の祖父母のいた村へと向かい、そこで青い提灯の祭りに遭遇する。そして、今はいないはずの尚哉の祖父に生者がこの祭りに足を踏み入れたことへの「代償を払え」と迫られるのだ。

リンゴ飴を選べば、歩けなくなる。アンズ飴を選べば、言葉を失う。そして、高槻はある選択をする。その後、高槻と尚哉は互いに手と手を重ね呪いに立ち向かうのだ。

最終回を前に思ったのは、いささかの物足りなさだ。何故なら、最終回の元になった『死者の祭』にはある人物が登場するのだが、ドラマではそれがなかったことにされている。このご時世だから撮影の都合などもあるだろうが、原作ファンとしては、原作を改変されたようなくすぶりもあった。ところが、第8話を見終えて、まるで違う思いが私のなかに浮かんだのだ。

この物語には、怪異が登場する。原作を読み進めればわかることだが、やがて人ならざるものと対峙することになるのだ。だが、「人ならざるもの」ではなく、「生きた人間」の力で難局を乗り越えさせたかったのではないか。

人智を越えた能力や知恵ではなく、「生きた人間」の思いやつながりによって、立ち向かわせたかったのではないだろうか。それが、あの最終回を生み出したのかもしれないとも思うのだ。

全8回のシーズン1の放映を駆け抜けて、あらためて浮かんだ思いがある。それは、尚哉と高槻の間にあるものは何なのだろうということだ。

原作はもちろんのこと、ドラマでも高槻と尚哉の距離は近い。原作では、高槻が尚哉に「顔が近い」とぴしゃっとされるシーンも見受けられる。原作では尚哉から高槻に対して「あんた」呼ばわりする場面も多々あり、まるで大型犬をリードする飼い主のようだ。ちなみに、実際に尚哉はかつてレオという大型犬を飼っている。

興奮するとハグをしようとする高槻と、それをいさめる常識担当の尚哉。怪異に目がない民俗学の准教授と、人の嘘を聞き分けられる大学生の青年の凸凹コンビ。まとめてしまうと、そういうことなのだろう。だが、はたしてそれだけなのだろうか。

耳のことで孤独であった尚哉とは別に、高槻自身もある秘密を抱えていた。それは時折青くなる瞳と、普段は服によって隠された背中の秘密だ。それを知った尚哉は、自分の過去と向き合おうとする。そして、佐々倉とともに高槻を守ろうとするのだ。

高槻は尚哉に人間関係を与え、尚哉の能力を必要とするだけでなく、失われていた日常の温もりと、日々の営みを取り戻させていく。ドラマでも、高槻の誕生日のお祝いで神宮寺勇太さんが演じる尚哉が笑顔を見せたとき、どれだけ「笑う」ということから遠ざかっていたのだろうと胸がつまった。

さらに高槻は、ことあるごとに尚哉を守ろうとする。それは大人としてのそれであり、また教師としても頼もしく、日頃のふわふわした姿とは別人のようだ。

尚哉にとって高槻は、手がかかる放っておけない人間であり、そして年の離れた友人のようにポンポン言える相手でもあり、与えられなかった愛情を注いでくれる存在でもあり、同時に尊敬できる教師でもあるのだ。何よりも、自分の耳のことを知っても離れていかなかった、かけがえのない人物でもある。

また先ほど紹介した原作の『スタジオの幽霊』には、尚哉と高槻の間に、あるやり取りが登場する。風邪のせいで中耳炎になってしまった尚哉は、「嘘を聞き分ける」ことが出来なくなってしまっていた。そして、それを高槻に知られてしまったら、自分は興味の対象から外れてしまうのではないかと怯えるのだ。尚哉は高槻を避け、以前のような一人きりの世界へと戻っていく。

幸いにも無事に耳は元通りになり、それを告げるために尚哉は高槻の研究室を訪れる。そして、高槻が自分の耳の不調を気づいていたことを知ってしまうのだ。高槻は、尚哉が何を考えているのかがわからなかったため、様子を窺っていたというのだ。

“「深町くん、怒った?」
「お、怒ってはないですけど、別に!──ていうか先生、自分で嘘を見抜けるんだったら、いつも俺を調査に連れてく必要ないじゃないですか!だって俺じゃなくてもいいわけでしょう、道案内も常識担当も」
「え、嫌だよ。僕は深町くんがいい。前にもそう言った」”(2巻P192)

尚哉が自分の存在価値について思い悩む場面でもあり、同時に「だって」と言いつのるくだりには思わず頬がほころんでしまう。人との間に一線を引き、その中に誰も入れようとしなかった尚哉が、自らそのラインを取っ払ったように見えた一瞬だ。

ちなみにドラマの中で伊野尾慧さんが「深町くんがいい」と言った瞬間に、妙に気恥ずかしくなったのは私だけだろうか。

さらに最終回の『死者の祭』では、原作では尚哉がある人物に言われたセリフが登場する。それは、「手を取る相手を間違えるな」というものだ。

ドラマにはこのセリフは今はまだ登場しないが、最終回の8話では、青い提灯の祭りから尚哉を守るために高槻は尚哉の手を掴む。青い光に包まれた夜の世界を、互いの手を取り駆け抜けるのだ。重なった2人の手があまりにも綺麗で、見惚れてしまったほどだ。

偶然といえばそうだし、考えすぎだと言ってしまえばきっとそうなのだろうが、高槻と尚哉の手が強く結びついていたことに、原作で尚哉が投げかけられた言葉の答えが、ここにあるように思えてならない。

あらためて、思う。尚哉と高槻の間にあるものは何なのだろう。だが、こうも思うのだ。この関係に、名前をつけたくない。この距離に、名前をつけてしまいたくない。そう考える私が、確かにいるのだ。

まだ新シリーズがあるとはいえ、つくづく幸せなドラマ化だったと思う。高槻彰良を演じるのが伊野尾慧さんで、深町尚哉を演じるのが神宮寺勇太さんで本当に良かった。原作が大切だからこそ、このお二人でよかったと心底思う。

高槻はセリフが長いため、そのなかで「高槻彰良」という人物を作りあげた伊野尾慧さんは、相当に努力を重ねたことだろう。神宮寺勇太さんは、セリフのない部分の芝居が抜群に上手かった。役になりきるというのは、こういうことなのだろう。7話での遠山(=今井朋彦)との芝居は、まさに圧巻だった。演じるのではなく、その役としてそこにいる。そんなふうに感じられた。

もはやこの二人以外の高槻と尚哉は考えられないし、ずっとこのコンビを見ていたいと願ってしまう。叶うならどうか、シリーズを重ねていつか映画館で観てみたい。

シーズン2ではドラマオリジナルの人物も登場し、ますます視聴者を惹き付けることになるだろう。まだ見たことのない『准教授・高槻彰良の推察』の世界が、そこに広がるのが楽しみでならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?