ひとり交換日記#A

もはやタイトルをつけるのが面倒なので、このようにランダム英字をつけておくことにした。
前回と同じく時系列には沿わない。
今回は #中学生編 にしよう。

拝啓 私へ

お元気ですか?
中学生のときのこと、覚えてますか?きっとよぉーく覚えていることでしょうね。中学は私の人生の全てを詰め込んだような混沌とした時期でしたから。

さて、中学1年生の頃は私が1番太っていた時期。体重は50キロ前後を彷徨い、制服は全く似合っておらず今見ても悲惨なのであまり写真は見たくない。祖母の家に制服姿の写真があるがあれは黒歴史ものである。
近所の小学校2つと出身の小学校のみんなが集まった中学は地元で下から2.3番目には頭が悪く治安も最悪であった。
ちなみに私の学年は1番平和であったらしく、他学年の教師たちからは奇跡の学年と呼ばれていたらしい。
入学して最初にできた友達はnちゃん。背が高く名前の通り長閑で優しい笑顔の持ち主だった。彼女は私をとても可愛がってくれた。絵を描くのが好きだった私たちはよく描いた絵と手紙を送り合った。3年間で一体何通送り合ったのか定かではないが20かそこらではないだろうか。彼女とはその1年以来クラスが同じになることはなかったが、付かず離れずの大切なお友達だった。
他にも後に恋人になるsちゃんや所属する吹奏楽部の仲間たちと出会う。全員書くのは骨が折れるので控えておこう。
1年の頃はとにかく部活が楽しく、大好きな先輩たちに囲まれてワクワクしながら過ごした。
書き忘れていたので恋人のことも書き加えておこう。1年の頃2人恋人がいた。ひとりめは野球少年、卒業したら付き合ってと中1の4月にいわれた。意味がわからない。彼は私に通りすがりざま大変嬉しそうな顔で好き♡と言い、毎日のようにLINEを飛ばしてきた。そして3ヶ月後違う彼女を連れて廊下を歩いていた。それ以来、誰かを振るときはこっぴどく振らないと溜飲が下がらないようになった。
ふたりめは別の野球少年。彼はウブでほんとに隣の席の私のことが好きみたいだった。手も繋げなければお喋りすら恥ずかしがる彼と一緒にいてもさほど楽しくなかった。申し訳ない。極め付けになぜかプレゼントの内容物が2度に渡ってかぶっているので、女心として許せず彼に別れを言った。わずか半年のこと。彼にもらったひとことメッセージをゴミ箱に叩きつけたのは印象に残っている。

2年になると、私はクラス替えにより仲良し友達と離れ、性格と口の悪さだけはピカイチのeちゃんやrちゃんと一緒に行動するようになった。このときはもうほんとに男子のことも嫌いで、一生近づくな汚い怖い虫ケラどもめと思っていた。趣味はもっぱら読書。本の虫だった。空いた時間はずっと本を読んでいた記憶しかない。

どうでもいいことをひとつ書いておくとすれば、私は小学校も一緒だったのに7年間同じクラスになったことがなかったたったひとりの男の子iくん(ごめん下の名前忘れちゃった、名字の頭文字)と同じクラスになり、奇遇にも隣の席になった。彼は華奢で小柄、物静かで優しそうな印象だった。女の子と話してることもあまりなく、同じような男の子たちと少人数でよくつるんでいた。私も彼とあまり2人で話すことはなかったのだが、近い席に彼の友達でおしゃべりのkuratakeくんがいた。彼ならきっと名前を出しても許してくれるだろう。別に彼と仲良かったわけでもないが。ともかく、おしゃべりな彼のおかげで私は隣の席の彼とも交えて話ができていた。彼は普段はスンとしていて勉強もかなりできなくて、他のことに夢中という感じだった。何に夢中なのかというと、ずーっと机の上に出しっぱなしにしていた「空飛ぶ広報室」という本である。私は当時何にも知らず、自衛隊のお話でブルーインパルスが出てくるということぐらいしか知らなかった。それも彼が教えてくれたことだった。彼はブルーインパルスに夢中だったのだ。本のことを話すときは、とても楽しそうだった。ちょっと今思うと可愛い男の子だ、友達にほしい。…そんな空飛ぶ広報室推しの彼だったが私はそれを読もうともせずふーんと聞いているだけだった。そして高校生になってやっとドラマを見て、どハマりし教えてくれた彼に感謝したと共に、こんなに見るのが遅くなったことを悔やんだ。少しぐらい話してみたかった。
_____どうでもいい話に随分時間をとってしまったので本題に戻ろう。

男を嫌悪しながらそれなりに勉強もしつつ、不登校の友達の家にも時々足を運んでいた。小学校の時ほどでなかったが、余裕のある時にフラリと訪ねていた。残念ながらもう連絡は途絶え、彼女の住んでいたアパートは空室になっている。元気にしていると良いな、と願ってやまない。たぶんヤングケアラーの子だった。
さて部活は夏、大詰めを迎え、私は吹奏楽史上類をみないソロパートを任され、死ぬ気で練習してコンクールに望んだ。結果は銀だったが、やれることはやった。舞台をはけた時安心して涙が出たほどだった。ピアノでは散々失敗し続けた私が初めて音楽で成功した瞬間だった。「アンタちゃんと吹けるん」と母親にマジな顔で脅しつけられたがよくやった。最高だった。ちなみに、この夏出たピアノの発表会でも私は難なく舞台を終えている。何度もピアノの発表会に出続けたが自分が満足する演奏ができたのは後にも先にもこれ一回だけであった。つまらずに弾けたというだけで、おそらく下手な演奏には違いなかっただろうが。
大好きな先輩が引退する9月、私はなんと先輩から副部長に抜擢された。縮こまってやってきたはずが、きちんと評価されていたのかと驚いた。誰とでも満遍なく接することができ、フォローできる役が副部長になることが多い世の中なので、八方美人な私は最適だったのかもしれない。
そうして9月から副部長に就任したが部長との相性は最悪で、早々に3つの派閥に分かれ部内は混沌とした空気が流れていた。行き場ない鬱々とした空気と、クラスでの楽しくなさと、家での居場所のなさに押しつぶされそうだった。人間は居場所を複数持つことで初めて精神的に自立し安定することができる。当時の私にはどこにも居場所がなかった。
そんなとき助けてくれたのはあのnちゃんだった。彼女は違う部活に所属していたため、私は部活のことを赤裸々に話すことができた。彼女も根気よく私に付き合ってくれていた。優しい子だと思う。きっと神様がいるのなら、彼女のような姿をしているのだろう。

3年になると、新しい後輩を迎えて部の規模は更に大きくなった。同時に精神はこの辺で限界を迎えていた。4月の春休みには食べ物が口を通らなくなり、味覚は消え失せ、毎日のように腹痛が襲った。寝ていてもしんどく、おもしろ動画を見て無理に笑おうとしたが何にも面白くなかった。息をするのもしんどい。死んだ方がマシだと初めて心の底から思った。あのとき母親から「ズル休みはやめろ」と言われたことは今でも忘れていない。あんなに辛い痛みを疑われていたことは母親に対する信用がなくなるきっかけとなった。
少し回復したが夏にかけてコンクールに「出るor出ない」で揉めたりしてまた悪化していった。学校まで徒歩10分なのに、息も絶え絶え、フラフラ行っていたせいで2倍の時間がかかっていた。突然倒れて担架で運ばれたことも一度や二度ではきかない。私のおかげで先生たちは担架の扱いに慣れていった。皮肉なものである。この時既に体重は44キロまで落ちていた。食べ物を食べないと体重が減るのだと至極当たり前のことを身をもって知った。
もはやそのへんの病人より病人だった私はそれでも休まず学校に行き、たまに倒れたまに保健室で寝ながらもコンクールの指揮を振りなんとかやり終えた。アルヴァマー序曲はもう2度と聞きたくない。
これに前後して恋人ができた。同じ部活のドラムを叩いていた男くんだ。サボり魔で性格のひん曲がったやつだったが、根は悪いやつではなかった。夏祭りの帰り2人きりで帰ったあの日とか、同級生とダブルデートをしたあの日とか。語ることは山ほどありそうだが、少女漫画でありそうなお付き合いイベントはわりとクリアしていたとだけ書いておこう。キス以外は。お揃いの物を持ったり、彼は素敵なプレゼントをよくくれた。きっと私のことを本当に大事にしてくれていたのだと思う。少女漫画でよくあるライバルからのいじめにもあった。
彼とのお付き合いは高2の冬まで続いた。詳細は高校編にて書こう。
高校受験に関しては偏差値70のところをB判定まで上げて、偏差値66A判定のところを受けた。塾に行っていない私が受けられる最高レベルのところだ。今はどうなっているか知らないが当時は問題にランクがあり、うちの中学は最高ランクの問題に対する対策はしていなかった。(細かくいうと英語のテストが問題文含め英文表記だったのだ。私はそんな問題解いたことがなかったので受験を諦めた。)
のちにもっと上に行っておけば良かったのではないかと苦悩したが、それは高校編で。

このようにして私は中学をひっそり卒業した。長くなったが中学はこんなものであった気がする。

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