ひとり交換日記#S

車校に来たら暇だと思っていたのに思いの外あんまり暇ではなかったし、noteを開く気分にもならなかった。
が、5日目にしてやっと気乗りしたのでちょっと書き進めよう。
今回は #小学生後編 で。

背景 私へ
お元気ですか。
小学校高学年のこと、よく覚えていますか?
ちょっと渋い顔をしてるかもしれませんが、黒歴史も含めてしっかり思い出しておいてください。
今後の人生の戒めです。

さて、4年生の頃の話からしよう。
どうにも記憶が薄いのだが、おそらく何回か恋をしたrくんと一緒のクラスになったのはこの辺だったのではないか。
遠足で行ったプラネタリウムを横の席で見て、ドキが胸々していたのはおそらくこの時期であった。
まあそんなことはさておいても、このぐらいの時期から私はどんどん厨二の様相を呈していた。
といっても少しマセて映画やアニメの真似をしている程度ではあったが。
このときの先生は若くて美人で優しい女の先生だった。ほどなくして結婚していた。
確かB3ぐらいの大きさの日記帳を定期的に提出する義務があった気がするが、そこで先生と恋バナするのが日々の楽しみだった。
日記帳を見られたら全てが終わることになぜ気がつかないのかは分からない。きっと若かったのだ。
5年のときは初めて男の担任の先生だった。私が義務教育期間中に会った先生の中でピカイチに良い先生であった。
小さい子供がふたりいる先生。私たちのことも我が子のように可愛がってくれた。
お楽しみ会だとかクリスマス会だとか言ってしょっちゅうイベントをした。授業もおもしろかった。台形の公式がなぜそうなっているのかを原理から考えさせる授業をいまでもおぼえている。台形を四角形や三角形に変形してなんとか計算できないか考えさせ、公式を自分で作らせる。

余談だが、数学も算数も原点はここなのだと思う。公式は証明がないと使えない。私が通っている中学は原理の証明はしてくれなかったが、高校ではやらなくてはならない義務があったらしく、公式が出てくるたびに先生たちは黒板いっぱいに証明を書いた。この丁寧さが数学には必要なのだ。

話は戻るが担任はイベントをたくさんやる代わりに宿題が多かった。毎日手の側面が真っ黒になるまで漢字練習帳を埋めた。
小学生は1番嫌がりなことだが、不思議と誰も文句を言わなかった。それ以上に毎日楽しかったのだろう。
先生には私が落ち着いていて大人びていると見えていたのか、先生に相談を持ちかけられることもしばしばあった。
私は信頼されていることがわかって嬉しかった。相談内容はクラスどうすれば良くなるかとか、仲良くしていた不登校の子のことだったと思う。

ここらで不登校の友達aちゃんのことを記しておこう。#中学生編で少し書いた気がするが、ここに詳細を記しておく。
彼女は小学2年生の半ばから学校に来なくなった。いたって普通の女の子だった。
ちょっとサバサバしていて男勝りな感じではあったが、女の子らしい一面もあったし気さくにしゃべってよく遊んだ。
2年生ぐらいまでは人類みんな友達っていう感じで誰とでも仲良くできていたから、特別aちゃんと仲良かった記憶はないのだが一緒に遊んでいたことは覚えている。
来なくなってから彼女の家の位置を知っていた私はたまにプリントを届け、彼女が玄関先に顔を出したときは他愛もない話をした。
その年によって引き連れる友達は増えたり減ったりメンツが変わっていった気がするが、多い時は5人とかで訪ねていた。今考えると多すぎる。
私は中学を卒業するまで彼女の家に尋ね続けた。もっとも、忙しさに応じて回数は減っていたが。
7年か8年?彼女の家に通ったが、私はなぜ彼女が不登校なのか知らない。というか早々に知ることに興味を無くしていたし諦めてもいた。知ったところでどうにかできるとも考えられない。イジメがあるならなんとかせねばと思ったろうが、彼女はイジメにはあってなかったのでその線はシロだった。
不登校というとすぐ「なぜ来れないか」の原因を探して解消しようとする輩が沢山いるが、おそらくそれは半分正解で半分不正解だと思う。
夏休み明け、私たちが学校に行くのを億劫になるのと同じように、長いこと休むと重い腰を上げるのは難しいのだ。
学校へのハードルが上がって学校に近づけなくなる。教室が怖くなる。
きっかけにあった何かの事件のせいでこれなくなった「点」型の児童と、家庭環境やその他の要因で長く行けない物理的状況に陥る「線」型の児童がいると考えている。
彼女がそのどちらだったかは分からない。が、彼女には身体が不自由なお母さんと年老いたおばあちゃん、小さい妹と弟の5人で暮らしていたことから見ると、学校に行かない彼女に家事を任せてしまっていたことは間違えない。
そういうのをヤングケアラーというのだが、彼女は恐らくこれだったのではないかと思う。
彼女はフリースクールに通ったりして最終的には通信制の高校を受けていたと思う。それからのことは私も分からない。中学のときに引っ越しして地区が変わってしまってからは彼女の家から遠くなり時々しか行かなくなってしまったし、連絡先は愛用のタブレットが壊れてしまって全部消えてしまった。
彼女が住んでいたアパートを時折りそばの道路を通りがかった際に見ることがあるが、洗濯物はかかっている。本人なのか入れ替わった違う入居者なのかは分からない。
中学でも高校でもそれぞれ他に1人ずつ不登校の子と仲良くなったが、その縁はたぶん、彼女が運んでくれたものなのだと思う。

話は戻るが、かの担任は残念ながら翌年の春違う学校へ配属されていった。
彼は去り際私たちひとりひとりに手紙を残してくれた。
その手紙は、今も大切に持っている。

長くなってしまった、6年生の時の話もしておこう。
担任は女の先生だった。
淡白で冷めた人で、私はあまり好きではなかった。
彼女は私たちからよく学び何か大切なことを感じ取っていたようだが、私たちは彼女からあまり何も学ばなかったように思う。等価交換の原則ぐらい守ってほしい。
印象的だったのは卒業式のときにされた話で、彼女が同じ小学6年生だったときどんな学校生活を送っていたかという内容だった。
イジメ(仲間外れ?いじり?)のターゲットが毎日変わる中で友情などというよりはイジメから逃げることに必死な毎日だったと言っていた。そのときの友達は全員疎遠になったとも。
「悪口で人と繋がりを持つのはやめておいた方がいい」という先生の言葉を今でもたまに思い出す。そのおかげか、私は悪口をあまり話題に出さなくなった。悪口を言っても深く仲良くなれないのをその話から学んだからだ。
先生から唯一学んだのはこれくらいか。
付け足しておくと、悪口を言わないだけで思っていたりはする。当たり前だ。ニンゲンとして許して欲しい。
高校で出会った親友に「全然悪口言わないよね。すごいなと思う」と言われたことがある。そもそも高校では交友関係が狭かったので悪口を言う相手すらいなかっただけだが、彼女の言葉は素直に嬉しかった。
また話が脱線しかけている。
小学生編のまとめとして、ある女の子の話を書いておこう。
1番家が近くて小学校の6年間ずっと仲良くしていたhちゃん。
私と彼女は相棒のように一緒にいた。
一輪車の練習をしながら「20になったら一緒にビールを飲もう」と話したことも全部覚えている。
でも中学になって、私たちは少しずつ違っていってしまった。
思春期になってアイデンティティができていく中で私たちの性格がズレていてしまったのだ。私は彼女といるのが苦痛になった。
幸いクラスも離れ、私は違う地区に引っ越したので彼女とは自然に疎遠になることができた。
偏差値の低いマンモス高に行ったと聞いたが、、、元気にしているだろうか。

いろんな出会いと別れがあった。
あとから思い出したが、4年生のとき仲良くなった子もサボり癖がある不登校?グレー?な子であった。
彼女の「死にたい」という告白に「私は止める権利はないから自由だけど、死んでほしくはない」と答えた10歳の私、今考えたら大人すぎやしないだろうか。たぶん、彼女は「死なないで」と言ってほしかったろうに、マセたガキだった。
彼女は中学にあがってすぐ東京に行ってしまった。コロナの前連絡をとっていたが…ほどなくして今の状況になってからは会える目処が立たなくなっている。あれから2年半も経ってしまった。早いものだ。

小学生を卒業して8年。
少しは大人になった、気がする。
いや、そう思わせて欲しい。
もうグラウンドを走ることもチャイムを聴くこともないのだから。

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