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超短編「居酒屋談義」

「簡単なことさ。」

男は目の前にあった冷酒をぐいっと飲み干した。
安さが売りのチェーン居酒屋。
喧噪にかき消されそうな、男の声に耳を傾ける。

「その1、過去は、変えることができる。その2、未来を変えることはできない。厳密には、未来は永遠に存在しない。そして最後にその3。一番大事なこと。」

「この世界には現在しか存在しないということ。永遠にね。」

「君に少しでも物理学の素養があるのなら、マクスウェルの悪魔に始まり、エヴェレットの多世界解釈に終わる、壮大な世界観を展開してあげたいところだけど、まあそうだとしても語るには時間が足りなさすぎる。ファインマンの師匠が電子は1つしか無いと気づいた感動を共有するには、前提となる道のりが長すぎるからね。」

さっきから何を言っているんだか、さっぱり分からない。

そして、僕が頼んだ日本酒はカラになり、彼は若干ぬるくなったであろうビールジョッキに手を伸ばした。先にそっちを飲んでくれよ。

「君は、何を言っているんだ、早く結論を言ってくれという顔をしているね。実に俗物的だ。だがそれはとても大事なことなんだよ。人は感情に支配されている。表情を観察することだ。」

「全ての人が自我に捕われている。その人を支配しているものが何かを観察することができれば、支配する側に回ることができるんだ。」

「まあこの話も別の機会にするとしよう。まずは過去を変えられるという話だが、君はきっとこう考えているだろう。過去とは、既に起きた紛れも無い唯一の事実で、それは永遠に変わらないものだと。」

そりゃそうだ。何を言っているんだ。

「やれやれ。では聞くが、君は過去のことを正確に思い出せるかい。1つ1つ、正確に。」

まあ、よっぽど忘れてしまったことじゃなければ、確実に。例えば昨日カレーを食べたのは間違いないけど。

「実に面白い。ではカレーの話をしよう。昨日カレーを食べたという記憶は、今はそれなりに克明にあるんだろう。では来年になるとどうだろう。10年後はどうだろう。今のように克明にあるだろうか。いや、日記に書き留めておけば忘れない。果たしてそうだろうか。記憶は既に編集され始めている。君の脳は、記憶を主観的に編集し続けていくんだ。ねつ造と言っても良い。」

「例えばカレーを食べたときに米粒を1つ残していたとしよう。それはどの米粒だったのだろうか。それは確実に1つだったと言い切れるだろうか。記憶は捨象した情報について語ることは無い。君は、残した米粒が1つだった過去からやってきたのか、二つだった未来からやってきたのか、永遠に知ることはできない。」

男はビールジョッキを飲み干すと、店員を呼びつけてイモ焼酎のロックを注文した。相変わらず僕の注文を聞く気配はない。

「君は1つの過去から連続してやってきたと思い込んでいる。しかし、そもそも時間は連続して流れていないんだよ。時間は量子化され、断続的に流れている。宇宙は無数の選択肢の中から、試行錯誤して、色々な過去が重なって現在を形作っているんだよ。君はそのことに永遠に気づかない。編集された記憶によって、主観的に選択された過去のレールに乗っていると思い込んでいるんだ。」

「次に未来の話だ。努力すればもっと良い未来がくる、未来を変えていくことができると思っているだろう。それもノーだ。未来というものは存在しない。現在の状態から、解析的に未来を導くことはできないんだよ。なぜなら宇宙は至るところ微分不可能だからだ。あらゆる方向に未来があるとも言えるが、何も無いと言った方が正確だろう。」

「イモ焼酎のロックが来たね。先ほど僕はこれを注文して、注文通りに商品がきた。原因と結果。因果律によって、現在から未来が予測できるかのような錯覚を感じてしまうね。でもダマされてはいけない。これは現在のことなんだよ。僕たちはたまたま、イモ焼酎のロックがある現在の中に存在している。」

「因果律は、便利なものだ。ある程度の展開を予測し、準備することができる。だけどそれは予期された未来がやってくるということとは異なる。さっきも言ったように。」

男は言葉を切り、イモ焼酎を一気に飲み干した。

「さっきも言ったように、現在は複数の過去を重ね合わせた集合体なんだよ。君の改ざんされた記憶では気づかない因果もある。君が認識している世界から予測している未来なんて、宇宙の心理からはほど遠い。それよりも、それよりもだ。」

会計に向かう合コン集団の喧噪で、話が中断される。どうやら彼ら彼女らはお互いに収穫がなかったようで、二次会に向かうことは無いだろう。まあ居酒屋チェーンで合コンをしているという時点で、この結末は避けようがなかったのだと言える。

「今、目の前にある現在。現在しかないんだよ。君はいま、隣の冷めきった合コンの結末について考えていたね。顔を見れば分かるさ。だけど彼らが、その結末に沿って動いているのはなぜか。何の意志も働いていないからだ。意志が働いていない物質は全て因果律に流されていく。大きな桃が川上から川下へと流れていくようにね。」

なぜここで桃太郎?

「いいか、何度でもいう。現在だ。現在にフォーカスしろ。意志を働かせろ。難しい話じゃない。こんな過去だったから今があるとか、今がこんなだから未来もたかが知れてるとか、脳はそうやって、君を因果の流れに載せようと働く。」

「流れに逆らえ。現在を観察しろ。いま、何が起きているのか。」

今、起きているのは、紛れも無く僕が一滴もアルコールを飲んでいないという事実だ。でも彼の言うことも何となく分かり始めていた。今を努力しないものには、未来なんてやってこないってことか。

「ちょっと違うな。例外なく多くの人は努力している。見ていて滑稽なほどにね。もっと突き詰めて現在にフォーカスすれば、君だってすぐに気づくだろう。何をするにも、今という時間は短すぎるんだよ。力めば力むほど、やるべきことの多さに呆然とするだろう。」

「逆なんだよ。努力すべきではないことを捨てていく。いや、何もかも捨て去っても大丈夫だ。本当に大事なものは勝手に浮かび上がってくる。考えすぎて、人生を訳の分からないもので埋め尽くしてしまうのが人間だ。脳は処理不能なほどに情報を溜め込み、編集して、それっぽい形にして君の人生をコントロールする。流れに逆らい、観察するために君は手ぶらでなければならない。」

「いま、何を持っているかじゃないんだ。むしろ持っているものは全て他人に与えてしまえ。そしてトコトンまで考え抜くんだ。そのためには身軽であればあるほどいい。何をすべきかを考える必要なんてない。全てを捨てて身軽になった時点で、道は自ずと浮かび上がる。」

やるべきでないことを捨てて、身軽になる。

「そうさ。僕が成功したのは努力したからじゃない。努力すべきでない全てのことを捨て去ったからだ。僕は身軽になった。膨大な時間の中で宇宙を観察した。そうして因果律の呪縛から解放されたんだ。だから僕は今ここにいる。」

「君は、無数にある僕の過去の1つだ。僕が伝えた言葉のほとんど全ては君には届かないだろう。それでもいいんだ。君はこれから多くの失敗をする。それでいいんだ。君の未来はまだ存在しないのだから。くれぐれも、くだらない編集された過去にとらわれないことだ。」

混濁する意識の中で、声だけが頭に響く。

「現在に、フォーカスしろ。身軽になるんだ。」

僕は一体…。

(完)


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