超短編「それぞれの戦場」
「陳腐よね」
朝食の納豆をかき混ぜながら、ミドリは淡々と言い放った。
納豆のことではない。テレビに映っている宇宙航空研究開発機構のニュースである。
テレビでは宇宙飛行士の野口聡一氏が、「和」という書き初めを顔の横に持ってきて、ニコニコと無邪気な笑みを浮かべている。
年齢は44歳。私と同い年である。
「どうせなら、喧嘩上等とか唯我独尊とか書けば良いのに。和、きぼう、夢って。それも羽織姿って、ださすぎ。トオル君なら、ガツンとやってくれたのにな。」
私はポリポリと頭をかいて申し訳なさそうに頭を下げた。年甲斐もなく職を辞して宇宙飛行士の公募に挑み、最終選考で漏れた私は、次の仕事を探すべくハローワークに通う日々だった。
「宇宙だと墨が重力で下にいかないからかすれちゃいました。なーんて。当たり前じゃん。ばっかじゃないの。」
彼女はテレビに毒づくことで、間接的に私を励まそうとしている。それが分かるだけに胸が痛い。今の私は宇宙よりも住宅ローンのことを考えなければならない。
ISSでは、NASAやロシアの飛行士との共同生活が必要である。私には十分な言語能力がないと判定された。今更悔やんでもしかたの無いことだ。
ふと顔を見上げてテレビを見ると、紙細工で作った門松がちらっと映ったように見えた。
門松。
私の名前だ。野口氏と選考で一緒になった控え室で、私が彼に作り方を教えた、あの門松だ。
この映像は正規の任務ではないから、休日を使って地上に送り、NASA経由で日本に届けたのだろう。
地上350キロメートルを超えて、仲間から送られてきた秘密のメッセージに、胸が熱くなり、思わず涙がこぼれた。
「あら、納豆にカラシ入れすぎちゃったかしら」
テレビから目を離さないまま、ミドリはそうつぶやいた。
さあ、朝ご飯を食べ終わったら、仕事を探しにいこう。私には私の戦場がある。
(この話はフィクションです)
【参考】
国際宇宙ステーション(ISS)に長期滞在している野口聡一さん(44)が、年末年始に1人で除夜の鐘や羽根つき、書き初めに挑戦したり、百人一首を読んだりした様子を宇宙航空研究開発機構が5日、公開した。
日本実験棟「きぼう」で、羽織姿になって書き初めをした野口さんは「和」「きぼう」「夢」と筆ペンで書いた。無重力の条件で体を安定させるため、片手で壁の取っ手をつかみながらになった。途中、文字がかすれ、「地球だと墨が重力で下にいきますが、自分で力を入れて墨を出さないといけない難しさがあります」と語った。
ISSには、米航空宇宙局(NASA)やロシアの飛行士と滞在しており、「和を保って半年間がんばりたい」と話した。このほか、紙細工で門松も作った。正規の任務ではないため、一連の動画は野口さんが休日を使って地上に送り、NASA経由で日本に届いた。
(朝日新聞 2010年1月6日)
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