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統治機構の源流

安倍政権は内閣人事局による忖度人事で官邸支配が~ということは良く言われますが、そもそもどうして内閣人事局が創設されることになったのか。

2014年に設置された内閣人事局の源流は、2008年の国家公務員制度改革基本法にある。

一連の公務員制度改革で変えたかったのは省庁縦割りによる人事システム。実はキャリア組のスピード昇進は元々の公務員制度として組み込まれたものではなく各省の運用によるものであり、これは戦後GHQが米国制度を下敷きに構築した職階性を運用する人事院のパワー不足により実現しなかったために、戦前体制が生き残ってしまったことによる。

大物OB、族議員、業界団体が目を光らせて省庁の幹部人事を実効支配することで省益重視、官邸軽視となってしまうことで総理のリーダーシップを発揮できないと困る、というのが問題意識の根底にあった。

ではこの、スピード昇進する一部のエリート官僚が国家を主導するという発想の源流をさかのぼると…

大久保利通が整備した内務省にたどり着く。

明治維新後、元勲たちが好き勝手に暴れて困るので、試験で選抜したエリートによる中央集権的な統治システムを設計したのであった。

戦争好きな荒くれものは破壊できるけど構築できないので、新たな県知事は政府が任命して送り込み、国のことをちゃんと考えさせる。廃藩置県。何となく良いことのような気がしますね。

そんな明治新政府が打倒した幕藩政治は完全なる地方分権型国家であり、徳川政府の睨みによって内乱こそないけれど、藩あって日本国なし、地域経済と武力勢力が結びついた分権型統治システムであったことを忘れてはいけない。

関所を越えるにはパスポートが必要で徴税もされるってそれ、もう別の国ですよね。

こうした幕藩体制の源流は応仁の乱に遡り、長年にわたる首都・京都での長期戦争によって中央が完全に荒廃したことで、武家支配が主流となっていく。

そんな武家の金庫番として財政を支えた荘園制度、そのベースは農地の私有を認めた墾田永年私財法、そして大宝律令…と遡っていくと、とうとう日本国の建国にまでたどり着く。(この辺の途中経過もちゃんとまとめたい)

日本という国を名乗るきっかけとなった645年の大化の改新と言えば、何だかよく分からないまま丸暗記した人も多いだろう。ムシゴハン、炊いて祝おう大化の改新。

これは中大兄皇子が中臣鎌足と一緒に蘇我入鹿という豪族を暗殺して、豪族の支配から脱却し中央集権国家の樹立を目指した一大クーデターだった。(乙巳の変)

なぜ中大兄皇子はクーデターを起こしたのか。

蘇我入鹿は豪族の中で強烈に権力の掌握を進めていて、そこからパージされることを恐れたのであった。

なぜ蘇我入鹿は権力の掌握を急いでいたのか。それには海の向こう側の事情があった。

当時、中国大陸を支配していた隋は、朝鮮半島にあった高句麗を何度も攻めたが、高句麗の守りは堅く戦争に疲弊した隋は滅んで唐に取って変わられた(618年)。そんな唐はメンツをかけて高句麗を攻めてきた。こうした事情を、渡来人と仲の良かった蘇我入鹿は察知していたと言われている。

急いては事を仕損じる。

主体は変わったけど国家的な危機は変わらず、結果として大化の改新後には中央集権化が進み、大宝律令により倭国と呼ばれていた国は日本と呼称を変えた。その背景には中国大陸の支配が迫っていたわけです。

ちなみに余談ですが、徹底抗戦で頑張った高句麗は、最終的に唐に滅ぼされました。

その理由は、内部分裂。

王の死後に三兄弟が権力争いをして、追われた長男は唐に通じてついに首都陥落。敵は外にあるばかりではなく、内部崩壊が一番おそろしいという話。

さらに余談ですが、701年に大宝律令を制定して、慌てて唐の統治機能をベースに、租庸調による徴税システムを敷き、戸籍制度と班田収授による生産性向上策を講じた訳ですが、唐では家族が同居共財なのが普通だったのに対して、なんと当時の日本は夫婦といっても財布は別の同棲関係だったり、親族関係のメンバーシップも曖昧、土地に縛られずに流浪する人も多かったので、戸籍がちゃんと定まらない。

土地を貰えるのは嬉しいけど納税は嫌だという人が浮浪して把握し切れないので、浮浪者リストを作って管理する始末。

そのうち唐や新羅による脅威も、どうやら日本列島まで来ることはなさそう...と緊張の糸が途切れると、官僚制は肥大化し、公共事業(お寺や大仏を作る)に勤しみ、本来は飢饉への備えであった正倉の米を横流しする始末。

しかも不正の証拠隠滅のために倉を放火したり、管理不備で失脚させるために放火したり...。

当初は神火による火災事件として処理してたものの、「幾ら何でも火事多すぎない?」と、政府も真相に気づいたとされる記録が残されています。

その後、743年には墾田永年私財の法が定められる。

これは大化の改新で決めた公地公民制(土地は国のもの)だと皆がやる気を出さないので、新しく耕した土地はあなたのもの!という抜本的なルール変更をしたもので、これによって農業生産が拡大し日本は発展の道を歩み始める。

一方で肥大化した官僚制への牽制の反作用として、私有財産を蓄積し力を蓄えた荘園が武家と結びついて公家支配を揺るがしていくことになったわけです。制度設計はかくも難しい。

とにもかくにも、日本は危機に直面するたびに統治システムを改革して乗り切ってきたことが分かります。

改革の頃は勢いが良くても、そのうちに当初の目的を失って肥大化して非効率なものとなり、新たな勢力に刷新されていく。

これからの日本は、果たしてどういった統治機構を構築していくべきだろうか。


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