ジェンダーアイデンティティ/性自認/性同一性…。

あけましておめでとうございます。
挨拶とは関係ないのですが、ジェンダーアイデンティティについてです。(性自認でも、性同一性でもどちらでも良いです)昨年は色々なところで、ジェンダーアイデンティティとは?という部分についてお話させてもらったのですが、これは「ジェンダーアイデンティティが女」とか「ジェンダーアイデンティティが男」とかそんなに単純なものではありません。
まず、アイデンティティとは何?という部分からですが、アイデンティティとはその人の個人を構成する根冠であり、世界中誰1人として同じ形がない、まったくのユニークなものであるのがアイデンティティです。
この形成はそれこそ母親の胎内にいるころから蓄積されている、膨大な情報により構築されたものなのですが、それらの積み重ねによって作られる個はすべてちがう形となり、その作られている根冠がアイデンティティなわけです。
これらは、生まれた地域の風習、宗教、言語などでも大きく影響を受け、とにかく色々なもの、事象で個が形成されていくわけです。
ジェンダーアイデンティティとは、そのアイデンティティの性別に関する部分だけを指したものなのですが、メディアなどが使うように「心が女性」とか「心が男性」みたいな単純というかステレオタイプなものではありません。
まず、当たり前ですが「女性のアイデンティティ」とか「男性のアイデンティティ」といった固有のものが無い訳で、なぜなら、アイデンティティはユニークだからで、生まれた時の性別が同じであっても、その形はみな違うわけです。
一方で、ジェンダーとはその社会で形作られている「性別規範」であって、歴史的風習、宗教的背景、社会文化、社会風俗、政治的思惑、経済的思惑といったものが入り交じって作られているもので、個はこれにももちろん影響を受けますが、そこにある「性別規範」=個の性別では無いわけです。
ノンバイナリーなどジェンダーマイノリティの全体を含むトランスジェンダーは、個を構築しているジェンダーアイデンティティが結果的に「ジェンダー」とマッチしていない人達というわけであり、単純にそれが男とか女とかで語ることは難しいのです。
ただ、たとえば、トランス女性、トランス男性といった人達は、その個のあり方の結果が「女性」というジェンダー枠、「男性」というジェンダー枠にあるということであるわけです。
前記のことを踏まえて性自認という言葉に対する定番のヘイトとして「じゃぁ、どこかの男性が女だと言ったら女になっちゃうじゃないか!」という誤った考えでトランスジェンダーを排除しようとしますが、言うだけでは性別が代わることは基本ありません。
トランスジェンダーは結果的にその在り方が、生まれた時に割り振られたステレオタイプな性規範と一致していない人達であって、まずその一致していない状態が先にあるわけです。
そして、大事な事ですがそこに「違和感があるとか、無いとか」それは関係ありません。違和感が!と言い出したのはあくまで、病理の流れの世界であって、「違和感があるから、性別を変えているのだろう」的なマジョリティの発想から来ている概念であって、そんなことはどうでも良いのです。アイデンティティの形成において、そこの理由や理屈はなんでもよくて、そこから導き出されたその人の個としての存在が答えであり、それ以上でも以下でもない話です。
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Queerな人達が(昔で言うGay)人権を訴えるようになって150年ほど。リヒャルト・フォン・クラフト(精神科医)が同性愛者の研究を始めて以後、長くヘテロセクシャルでシスジェンダーであることが健常な状態であって、LGBTQ+の人達はなんらかの異常が起きているじょうたいという考えの基に、疾病としてのラベルを押しつけ、それが私たちに対するスティグマになってきました。
↑で何故、アイデンティティの話をしたのか?といえば21世紀になって、150年たってやっと個のアイデンティティに正解も間違えも無いということが少なくとも医学の世界では結論を出した(あるいみ長かった)ということであり、どの形が正しいとか、間違っているとか無いというあたりまえの状況にやっとなったということなわけです。
日本の中では未だに「性同一性障害」という疾病にしがみつこうと必死な方々も多くいます。これはトランスジェンダーの存在が被差別クラスターであり、その差別を唯一逃れる方法が「性同一性障害」という疾病であるという考え方からです。
なので「性同一性障害」を冠にしている人などは、私たちはトランスジェンダーじゃない!とか、○○さんは偽物だ!とか、差別化する側に回ろうとします。これは、他者を排除することで「私たちは変態じゃないのです!皆さんと同じように、ちゃんと一緒になって排除いています!」と言うアピールをしないと、自分たちの立場が危うくなると本当に思っているからです。
これらの背景にはアイデンティティという個がまったくありません。そもそも「性同一性障害」(Gender identity Disorder)という名称は、ジェンダーに関するアイデンティティが間違っているという意味を持ち、専門家の間でとても不評な言葉でした。
アイデンティティとはユニークなものである。当たり前の話ですが、ことジェンダーに関してはそれが通用しないかのようにとらえられたのがこの文言だったわけです。しかし、間違っているというなら、正しいジェンダーアイデンティティというのが有って、それの比較級で診断されるべきもの(まぁ、世界的に、また、今の日本でもその医師のジェンダー感を元に診断が行われているという背景はあります)となりますが、基本はユニークであり正しいも間違っているも無いのがアイデンティティです。
性に関するアイデンティティに正しさがあると決めてしまったら、フェミニズムという考えもありえなく、今の女性の地位の話も否定される事になってしまいます。(男女平等なんてアリエナイみたいな話にされてしまう)
そして最後の部分。ことの問題は男女が不平等な社会が放置されていることにより複雑化されてしまっている。スペインがアルゼンチンモデルになったよと、昨年のニュースがありましたが…。それは、なんら不思議なことではなく、ジェンダーギャップが少ない地域においてなら、公的な性別が安易に変更できたとしても基本問題無いはずということなだけです。男・女というのはマークでしかなく、その個が変化するわけでは無いからであって、結局、ある人の扱いはその人のパーソナリティを判断されるわけであって、平等が担保されている限りはマークはマークでしか無いということだからです。
くどくどと書きましたが、セックスワークの話でもそうなのですが、もっと個のアイデンティティが多様であることがあたりまえになってほしいからで、日本では個の主張がとても薄いのでめちゃめちゃ伝わり憎い感じもしますけど…。
よのなかに居る人は、だれ1人同じじゃないってことをもう一度考えてほしいわけです。はい。

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