品とモラルは誰のもの?

 レイトン教授シリーズの謎みたいなタイトルですいません。年末年始には毎年なにかそれらしいことを書いては来たのですが、書きたい事はもう話したり、ネタにしたり、スレッズのほうに隠したりしたのであんまりないので、ふと気づいたことを年始一発目のリハビリがてら書こうと思います。
 
 タイトルにも書いたようなテーマでして、品やモラルというのは誰のものかを考えたことはありますか。これに近いテーマで僕は卒論も書いているのでぜひ暇な方は読んでもらえると青い朝に寝て赤い夕方に起きていた頃のあっちゃんも嬉しいと思います。
  
 品とモラルをいっしょくたにするのは強引かもしれませんが、今回話したいのはそんな視野の話じゃないので割愛。わかりやすく言うと、全員に品とモラルがある社会では誰が得をするのか、その得を得る人間たちこそが品とモラルを植え付けようとしているのではないか、というお話をしたいと思います。

 品とモラルがある社会を想像してみましょう。車はスムーズに流れ、割り込まれることはなく、挨拶をすれば返事があり気持ちがいい。店につくと適度に賑わいを感じることはあれど決して騒がしくはなく、目の前の料理と会話を楽しむことが出来る。品とモラルを語るものたちが常識や当たり前という言葉を好むのは当然で、品とモラルがある社会では当たり前が当然のように履行される社会であると考えられる。力や迷惑行為によって瞬間的にでも立場を逆転しようと思う人間がいない社会である。ルールが最も強く効力を発揮することが出来る社会というわけだ。

 品とモラルがない社会を想像してみましょう。皆が割り込まれないようにと車間をぎゅうぎゅうに詰め、少しでもすきを作れば右から左から後ろからと車が突っ込んでくる。挨拶をする必要などないためこんにちはが何なのかもわからなくなった人たちは店につくと店員の些細なミスを見つけるまでは食事に手を付けようとも完食することはない。都内のテーブルの声量に負けないようにと声を振り絞り、喉が枯れるのを防ぐことを理由に酒を飲む。酒を八分目で止めるのは店員になにかちょろまかされた時に言い返すだけの知能を取っておくためである。このような社会では、言ったもん勝ち、やったもん勝ちが当然で資産や功績といった永続性のある権力の糧よりも一瞬一秒の損得を重視したふるまいの積み重ねによって富を形成するだろう。ルールは目印としての効力しか持たず、人々はチキンレースを繰り返すのではないだろうか。

 やっと結論までこれた。
 品やモラルの重要性を語るのはいつも権力者側である。それは権力者が持っている永続性のある力が崩されるリスクを嫌うからではないか、という気づきの話です。加えてマナーとはその構造への忠誠心と理解を示すポーズではないか。ということです。

 なんか僕が反権力主義のアナーキストみたいな言説になっていますが、別にそんなことはなく、挨拶されたら挨拶し返すし、車はバンバン前に入らせます。急いでないんで。目的がないんで。居酒屋での振る舞いには少々問題があるときもあるらしいですが、酒を取り上げないやつにも責任があると思っています。落ち度も割り勘で。でもまあ品とかモラルばっか気にしてると勝てないしずっと有利なポジションからと取られ続けることになっていてもおかしくはないよ、とも思っています。

 余談ですが、平塚らいてうが作った青鞜者の編集長やってた伊藤 野枝さんと僕は親戚のようで、来歴を追ってみると日本最初のフェミニスト兼アナーキストで最期は関東大震災の混乱の中殺されて井戸に捨てられたとんでもない人だったみたいです。野枝さんにあった何かが僕に繋がっているとしたら、なんかウマ娘みたいで熱いっす。静岡にお墓があるみたいなのでお参りしに行きたいなと思ってます。最近まじめな内容も全部うそのやつもクオリティを気にして書けなくなっていたようなきがしていたのですが、書き始めるとすんなり書けることを思い出せてよかった。書きたいから書くし、どうせ書いたし出すだけ。今年はお金があるといいなあ

 
 

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