常識のレシピ

一年前に書いた文の大トロの部分だけ抽出した美味しい文です。

前半部分はフーコーの考えを整えた素材で、後半が料理です。後半だけでも見ていただけると。供養になります。



フーコーの同性愛や生権力への考えから、常識の発生から効果の発揮を考える                         
 フーコーは戦時中のフランスで、医者の家庭に生まれ、当時ではまだあまり理解されていなかったゲイだった。そのような不条理な情勢や人とは違う性癖、エリートとしての苦悩などが彼の理論の土台となる経験となった。
今回の論文ではフーコーが権力の発生のメカニズムや、同性愛に対しての暗黙の了解のような、様々な拘束力について書いた本の中から興味深い文献を先に抽出し、それがどのような考えで書かれたものなのかを考察していく。この、抽出した文献がどのような意図を含んでいるのかを考察し、自分の論文のパーツとして使用し、後半でそれらの文献からフーコーの考えや研究結果をもとに、2021年現在では同性愛はどう考えられているのか、常識とは何なのか、といった私の研究をすすめるといった構成になっている。
 今回の論文で最も書きたいことは、権力と常識という我々の生活を覆いかぶさるように拘束力を発揮し続けている二つの力の発生のメカニズムと消失する際の条件、また個々人としての権力と常識の力の有効な活用法がここからは常識を有効活用するためにはどう常識を作用させるべきかを考える。結論から言うと、常識には、効果を発揮するための枠が必要になるため、枠を正しく認知することと、極めて小さな枠と常識を自らのなかに成立させてしまうことの2つではないかいう考えを、この論文の中で書く。

権力の発生
権力とは“支配-被支配”という二項図式ではたらくのではなく絶えずどこにでも発生するのであり、これは自己規律理性が自発的に権力に服従する、ということをフーコーは提唱した。まずはこの理論を提唱するまでに至った経験をなぞっていく。
 フーコーが学生であった当時のフランスでは街中で男性同士がダンスをすることは犯罪であった。これは、男色は生産性がなく、キリスト的思想では神に反するといった考えからである。そのためフーコーはフランスでは大変な生きづらさを感じていた。そんなときスウェーデンの大学で教授をしてほしいという依頼が舞い込んだ。スウェーデンではゲイに対する法律は無いことから、ゲイに寛容な文化がある国だと思っていたフーコーは迷わずスウェーデン行きを決めた。そしてそれが権力の発生の理論を提唱するきっかけとなる。
 スウェーデンでの生活を始めたフーコーは、そこは自分が思い描いていたものではなかったことに気づく。(中山:1996 22)
スウェーデンではゲイに対する法律は存在しない。にもかかわらずスウェーデンではゲイに寛容で性に対しておおらかなわけではなかったのである。
暗黙の了解という言葉がある。これは規則や規定がないものの相手が起こした行為に対して自らが行うべき行為を自らの自己規律理性によって決定するということだ。これこそが、フーコーが提唱した権力が発生するメカニズムである。このことをフーコーはスウェーデンで発見した(中山1996; 25)
 ここからわかることは、権力の発生には決定機は必要なく、むしろ皆がそれを前提として動くような共通理解となっていると皆が思うようになると、そう思っているものの中に拘束力を持つ権力が存在しているのである。


管理と処罰と道徳
現代の社会の形成方法として、フーコーは、互いに監視し合うことで自己の道徳観を自らに鎖として芽生えさせることで、個々人の生産性を引き上げていると論じた。これの典型例がパノプティコンだ。これは管理人から全体が見える構造の建物である。管理人以外の人間は自分がいつみられているかわからないため、いつみられていてもいいように自らを縛り、模範的な行動をするように仕向けることができる。これは刑務所のような空間だけの話ではない。例えば軍事基地や学校など統率が必要な空間では当たり前のようにこの方法を用いて人間を自らの道徳でいとも簡単に縛り上げた(フーコー1986 :70)


告白
中世以降の西洋社会では、告白というものを、そこから審理の算出が期待されている主要な儀式の一つに組み入れていた。1215年のラテラーノ公会議から続く告解の技術の発展、刑事裁判の手続きにおける告訴に重点を置く方式の後退、有罪性の試練の消滅と尋問並びに調査の方法の発展、犯罪の追求において国王の行政府の占める役割の増大、それらは私人間の調停という方策を犠牲にして実現された。 
宗教的権力の次元において、告白に中心的な役割を与えることに貢献してきたが、そもそも告白の変遷は特徴的であり、他者によってある人間に与えられる、身分、本性、価値の保証としての告白から、ある人間による、自分自身の行為と思考の認知としての告白、つまりは自白的価値へと移ったのである。しかし、彼が自分自身について語り合えるかあるいは、長いこと、ほかの人間たちにほかの人間たちに基準を求め、また他者との絆を顕示することで、自己の存在を確認してきた。ところが、彼が彼自身について語りえるかあるいは語ることを余儀なくされている真実の言説によって、他人が彼を認証することになった。真実の告白は、権力による個人の形成という社会的手続きの核心に登場してきたのである。いずれにせよ、試練の儀式の傍らで、伝統のもつ権威によって与えられる保証というものの傍で、証言の傍らで、いやそればかりではなく、観察と立証の学問的方法の傍らで、伝統のもつ権威によって与えられる保証というものの傍らで、告白は、組織化されるものとなった西洋世界においては、真理を生み出す技術のうち、最も高く評価されるものとなった。それ以来、我々の社会は、異常なほどに告白を好む社会となったのである。
告白はその作用をはるか遠くまで広めることになった。裁判において、医学において、教育において、家族関係において、愛の関係において、もっとも日常的次元から最も厳かな儀式に至るまでである。自分の犯した罪を告白する。宗教上の罪を告白する。自分の考えと欲望を告白する。自分の過去と自分の夢を告白する。人は、ほかの人間には不可能な告白を、快楽と苦しみの中で、自分自身に向かってし、人は告白する(フーコー1996年76-77)

 この告白のメカニズムに関しての引用を行った理由は、人の内部に隠されたものこそが本物であるとする考えが中世には存在して、その考えは今も信じられている点がある、と考えたからである。現在でも被疑者の自白は有力な証拠となることや、秘密を打ち明ける行為は信用に足る人間だと認めた証のように感じることも、告白の価値がいまだ根強く残っていることが伺われる。


同性愛の歴史と言説と権力の構造
言説は権力を選び、産出する。言説は権力を強化するが、しかしまたそれを内側から蝕み、危険にさらし、脆弱化し、その行手を妨げることを可能にする。同様に、沈黙と秘密は権力を危険から守り、その禁忌を根付かせる。しかしそれはまた、権力の掌握を緩め、程度の差はあれ曖昧な許容を取り付ける。例えば自然に対する大きな罪の典型とみなされていたものの歴史を振り返ってみれば良い。男色という、この極めて混乱した範疇について、文章が示す極度の慎みと、それについて語る小音に対するほとんど一般的とも言える抵抗が、長いこと二重の機能の仕組みを可能にしてきた。一方では極端に厳重な刑罰があり、他方では明らかに非常に広い範囲に及ぶ寛容の態度があった。ところで、19世紀の精神医学、法解釈、そして文学においても、一連の言説が、同性愛、性倒錯、少年愛、心的両性具有といった様々な種ならびに亜種に関して出現したことは、確実にこの倒錯の領域における社会的統制の極めて重要な前進を可能にした。しかしそれはまた、反動としての言説の言説をも可能にしている。つまり同性愛は、自分自身について語り始め、その正当性を主張しはじめたのだが、しかしそれは医学が同性愛を乏しめる用語、その範疇を用いてなのである。一方に権力の言説があり、それに対峙して、他方に権力に対抗するもう一つの言説があるのではない。言説は、力関係の場における戦術的な要素あるいは塊である。同じ一つ戦略の内部で、相異なる、いや矛盾する言説すらありえる。反対に、それらの言説は相対立する戦略の間で姿を変えることなく循環することもあり得る(フーコー 1996 : 130-131)。
 先で述べた告白のメカニズムから権力発生までの流れを考えるうえで重要となるフーコーの考えを読み取ることができる重要な文脈だと思う。人々が秘密にすべきこととして認識させることで権力は完成するということが分かる。 


ここまでがフーコーにまつわる文献を読んだうえで私が注視したフーコーの思考の流れである。フーコーは、人が内部で隠そうとしたもの、つまり秘密を持たせることこそが権力の力であり、その効果であり、発生の初期現象であると述べた。隠そうとさせた時点でそこにはすでに権力が発生しており、その隠そうとしたことが外に出てきた際にも新たな権力が発生している。つまり人々は常に権力構造の中にいるということをフーコーは感じていたのではないかと思う。
生権力と呼ばれるものに関する考えは、先に述べた権力の発生とは違う理由で発生しており、この力は資本主義を発展させるために必要不可欠だったと論じている。その理由を端的に説明すると、人は一人では生きてゆくことができないから、というものに尽きると私は考えさせられた。なぜなら、我々は生まれた時から誰かの力を借りて生まれ、学校や会社など様々な場所で国家の管理下に置かれて生活するからである。このため生権力の影響を全く受けずに生活することはほぼ不可能なことである。

フーコーと告白
フーコーは人と人のかかわりの中には必ず拘束力が発生していると考えているように思える。(フーコーはこの力を権力と表していたが、私はより広義に意味で使うためここからは拘束力として表現する)
フーコーは告白によって権力の発現、自らの思想の発現、そして他者からの存在の証明を可能にすると述べていた。この考えにたどり着いたのはフーコーが当時法に触れるほどタブーであったゲイだったことに起因するように思える。この考えはある部分では正しいと私も思う。現在の環境と大きく違うのはゲイへの社会的理解度だけで、当時も現在も殺人を告白することは同じ重さを持った告白だっただろう。ここから私が考えたのは、発言することが難しい告白ほど、その告白の他者への拘束力は大きくなるのではないか、ということだ。例として挙げるとすると、愛の告白は身近で分かりやすい。愛しているという考えを告白されたものは、その告白に対して評価を下さなければならないという拘束を課せられる。他にも、性的嗜好も同じような拘束力を持つように私は考えられる。これらに共通することは、やはり告白することが難しい告白ほど他者に対して強い拘束力を持つということではないだろうか。このように人と人のコミュニケーションの中には幾度となく相手への拘束力を発生させているのではないだろうか。

フーコーと告白、拘束力
フーコーがスウェーデンで経験した暗黙の了解の話から分かるように、同調圧力は確実に存在する。これは、先に述べた告白の話とリンクさせて考えることができる。つまり、人にうかつに告白できないことは基本的には落ち目を感じる思考や思想、経験であり、この落ち目をなぜ感じるのかを考えることで暗黙の了解、同調圧力の発生、つまるところ権力の発生の原因にたどり着くのではないだろうか。
例えば「おなかがすいた」という発言することをはばかられる状況は、どのような状況だろうか。日常の中ではあまりないのではないだろうか、これは全員が感じることのある現象として当然の欲求であるため、自らの中にこの欲求があることを、全員が当然だと思っていると発言者が思うことができるからではないか。別の例として、「人を殺したいと思っている。」という発言することがはばかられる状況はどのような状況だろうか。日常では当然はばかられる。しかし非日常、例えば戦時中であれば、当然の欲求のように見受けられてしまうのかもしれない。発言者が誰かのことを憎いと思っていることを周囲が認知されていると思えていたならこの告白もはばかれはするものの、告白はたやすく、何らかの理解も示されやすいのではないか。ここで、告白の拘束力を左右するものとは、発言者が告白する内容を当然のことと思っているかどうか、つまり告白者にとっての共通了解の範疇の内容かどうかによる、という結論が出る。そして告白の拘束力は、告白されたものにとって告白されたことが自身にとっての共通了解の範疇の内容であるかどうかで大きく左右される。ここから「告白の難易度と告白の拘束力には、相関関係がはっきりとあるとは言えない」ということを、告白に関しての私の結論としたい。

ここまで告白が権力を発生させる理由、告白を難しくさせる要素について記述してきたが、結論として一人一人の内の共通了解、すなわち一般に常識といわれる判断基準がどちらにも大きく関係することが分かった。ここからは個々人の中に常識はいかにして作られるのかを考える。

常識とは
常識とは、都度自分で考える必要のない次元の、集団で共通理解を持っている状態だと私は定義したい。朝起きて、夜寝るという考えを集団で共有することで、その集団は他の集団よりも効率的に活動することができるだろう。エスカレーターでは急いでいないものは左側に寄せて並ぶ、急ぐものは右側を使用するという考えを集団の中で共有することで、例えば私の地元である福岡では、円滑にエスカレーターを利用することができる。これらは例として挙げたが、共通するのは、理解や納得を必要とせず、生活が円滑になるものであるという点だ。
広げて、生存活動がより円滑になるものとも考えることができる。そのため、常識がなぜ常識であるのかについては考える必要はないのである。ここに、暗黙の了解が自然に形成される理由が内在する。暗黙の了解がなぜ暗黙のままに了解されているのかといえば、それは先に論じた、常識の効果があるからせある。よって、個々人の間で、暗黙の了解とはなぜ暗黙の了解なのかを考える機会を奪われているため、世代を超えるたびにその力はより強い拘束力を持ち、意味を考えられることもなくなったのではないだろうか。このようにして常識は形式化し、個々人の中で強い拘束力をもつ、文字通り「お約束」となったのである。
常識の拘束力は、その常識を行使するものが多ければ多いほど強くなる。個々人は自分がなぜ常識を行使しているのかを考えることはないため、自らが常識に囚われていることに認識することができない。そのうえ、お互いが常識の内部に存在する場合、円滑に生活を送る上での最適解が、常識に沿って行動することとなる。そのため余計に常識に縛られていく。このようにして同調圧力が完成していくのである。

現在の同性愛
フーコーが同性愛について論じていた時代から同性愛についての考え方は大きく変わった。現在各国では同性愛を認める論調が強くなっており、法律が改訂されて国もわずかではあるが存在する。これは常識が変わり、権力構造が変わったことに起因するととらえることができる。
権力によって隠すべきものとされていた同性愛を告白するものが表れたことで、疑う必要のなかった常識であった同性愛はよくないことである、という常識に属していない人がいることを認知したとき、その常識がなぜ常識なのかをもう一度考え直す必要が生まれたのである。
 そしてこの、同性愛はよくないものであるという常識が間違っているという常識が生まれた現在では、同性愛はよくないものである、という考えを持つことが悪であるという常識に塗り替わったのである。今後は同性愛を認めていないものが秘密を隠し持たなければいけない時代になっている。
 
常識と「枠」
ここからは常識を有効活用するためにはどう常識を作用させるべきかを考える。結論から言うと、常識の枠を正しく認知することと、極めて小さな枠を常識を自らのなかに成立させてしまうことの2つではないかと私は考える。常識が成立するためには「枠」が必要になる。先の例であれば福岡県内という枠が有り、大阪では反対に急ぐものは左側に乗る、という常識があり、熊本にはもともとそのような常識がないそうだ。国内では葬式の際は喪服を着る常識があるが国外では別の常識が存在する。
 常識の存在を認知するためには別の常識を発見し、比較する作業が必要になる。つまり常識の外の視点がなければ常識の知覚は難しい。
 さて、の常識の枠を正しく認知することがなぜ常識を有効活用することに必要となるのかである。上に述べた通り常識は多数存在し、一定の枠の中でのみその効果を発揮する。そのため、違う常識が効果を発揮している枠の中では、別の常識の効果は発揮されない。共通認識が出来上がっていない場所での常識は、排除される対象になり得る異物でしかない。そこで、自分が持っている常識がどのような大きさの枠でどれだけの拘束力を持っているのかを正確に判断し、別の常識が効果を発揮している枠の中では、その常識を自らも用いることができる人間の一人であることを披露するほうがより低コストでよりその枠の中での生活を円滑に運ぶことができるだろう。
 もう一つの方法である極めて小さな枠の常識を持つ、という方法がなぜ有効かも考察しよう。これは常識を成立させることが難しいことと関係がある。常識は一度成立させると強い効力を発揮する上、突然効力を失うようなことはおこりにくい。そのため、自分にとってメリットの大きい常識を多く身につけると生活が円滑になるだろう。しかしその常識を共有し、行使できる人を必要とするため、成立させることは難しい。そのため自分だけがその常識を利用することで、効力を得ることができると思う。ルーティン化してしまうことというのは、自分だけに適用している常識に則って生活することと捉えることができる。

終わりに
ここまでフーコーの思考を自分なりに読み解き、生権力とは制度や社会の仕組みのようなハード的要素はもちろん、愛する対象は異性であることが常識的であると思うこととするようなソフト的要素としても現代社会を生きる者はみな支配下に置かれている。先に述べたように内側から自分の位置を正確に把握することは難しい。しかし常識の存在を知覚することでその常識を行使するかどうか選択する権利を手に入れることはできる。そして生きている人全員が何らかの常識の中で生活しており、自分以外の人間が使用している常識など無数にある。そのすべてを理解し行動することは不可能である。そのため互いに互いの常識があるということを理解して生活しなければならない。
 常識とは、常に変化する可能性を秘めている。常識外れとされていることが常識になることや、その反対のことも起きる。自分の判断の中に知らず知らずのうちに常識が混入していることを意識しながら判断を行うべきである。

参考文献 
フーコー,ミシュル(1986)『性の歴史1 知への意思』渡辺守章訳 新潮社.
中山元 (1996)『フーコー入門』筑摩書房

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