感情的な欲求と本音・本当の願望
“先のない”感情的な欲求「やりたくない!」
ただ「何が嫌なのか」だけは、はっきりしている。
どうして欲しくないのか、どうしたくないのか、どうなって欲しくないのか・・・自分が受け入れたくないと思っている現実に対してだけははっきりとわかるのに、「じゃあどうしたいの?」と聞かれると、時間がパタッと止まってしまったのではないかと思うくらい、思考停止するときがある。
あなたにもそんな時ないだろうか。
締め付けられるような感情がして、何かをひどく拒絶している。嫌なこと、したくないこと、やりたくないこと、拒否したいこと・・・はっきりと心でも頭でも分かる。でも、どうしても“その先”が抱けない。
どうしたいのか、わからないのだ。
したくないことはやめて、したいことだけをしよう!とはなるほど、聞こえがいいものだ、とよく思う。確かにそれができれば理想だが、理論は理解できても大切な“したいこと”に対する感覚が弱い場合はどうしたらいいのだろう?
それは己が、自分のしたいことを我慢し続けてきたからだ!と言われればそうかもしれない。でも、いつもどこか釈然としない感じがした。
他者と関わり心の講義をする仕事をしてきて、このようなケースにいつも出会う。
希望することを聞いているのに、常に否定形となる。「どうなっていきたい?」と聞いても『不安にならない状態がいい』とか『お金の心配がない自分がいい』と、何かを拒否する風にしか出てこない。
何が欲しいのか、ではなく、何を拒否したいのか、が中心だ。
余談だが、潜在意識はYESとNOを区別できないため、『お金の心配がない自分がいい』という表現は、このように伝わってしまう。
お金の心配がある/それがない自分がある/これらがいい
お金の心配が生まれ、それを持たない自分が生まれ、このサイクルはやめられない。だから潜在意識に本当に望んでいる宣言文をつくることは案外難しいのだ。
どうしたいのか、どうなりたいのか、はっきりとイメージできて、わかっている場合はいい。しかし、潜在意識を学ぶ方で、このような肯定文を作れない方がいる。否定文は作れるが、肯定文がどうしても思いつかない。
『嫌なことがはっきりしているだけで、別に望んでいることがわからなくてもいいんじゃないかな・・・』
そのようなケースに当たるたび、わたしは思うのだった。
何を望んでいるかどうかも分からないのに、それを知らなければならない(先に進めない・変化しない)と思い込んでしまうと、とりあえず的な「したいこと・やりたいこと・なりたい自分」をつくる。
周りを参考にし、とりあえずつくられた「したいこと・やりたいこと・なりたい自分」は生命力を持たない。形だけがあるようで、中身がない。だから、自分を突き動かしたりしない。
これが結構、心にとってはお荷物だ。嫌なことがはっきりしているだけなのに、どうしたいのかを、無理やり作らなければいけないのだろう。これは今のわたしが思うこと。昔のわたしは、そうは思えなかった。
むしろ、したくない・嫌なこと・やりたくないこと“だけ”はっきりわかっている状態を居心地悪く感じ、なんとかしたいと思っていた。
“したくないこと”は、はっきり分かる。でも、同時にしたいことが同じくらいはっきり分かるのか?と言われればそうでもない。こういうとき、未来を描こうとすると思考が停止する。
やりたくないこと、したくないこと、嫌なこと・・・そのアラームたちが鳴り響いている最中に、「じゃあ、どうしたいの?」と問いかけても本当は出てくるわけがない。しかし、逆はあるのだ。
したいこと、やりたいこと、望んでいることがあるときは、同時に「したくないこと、やりたくないこと、望まないこと」も存在する。
不思議なものである。
嫌だ!しか存在しないことがある。その先はなく、「どうしたいのか」と言われても出てこない。これがいい!というのが存在しているとき、これは嫌!も必ずある。
つまり、『嫌だ!』しか存在していない時の嫌なことと、『これがしたいから、これはしたくない』というような場合における嫌なことというのは、全く違う意味を持っている、ということなのだ。だから、本当は切り分けて考え得なければならないと私は思う。
今回は、この「嫌だ!の不思議」を通して感情的な欲求と本音・本当の願望というテーマを取り上げていきたい。
わたしが感情で行動を決めることがない理由
いきなりわたくしごとだが、『あぁ仕事嫌だ』としょっちゅう思う。自分の仕事を愛してはいるが、四六時中好きなわけではない(笑)
口に出すほどでもないが、しょっちゅう頭の中で言っている。“書きたくない”ともよく思う。“行きたくない”ともよく思っている(笑)
頼まれているわけでもなく書きたくて書いているし、結局好きだからこのような仕事をしているのに、おかしな話だ。
そのたびに、贅沢な奴め、と思う。こんなにも恵まれた環境にいるのに、何を言うのだ「仕事が嫌だ」だの「書きたくない」だの。
でも、素直にそう思うのだからしょうがないと同時に思っている。嫌なものは嫌なのだ、と。やりたくないものはやりたくないし、行きたくないものは行きたくない。ただし、嫌なのと、やらないはイコールではない。
つまり、私にとって『嫌だからやらない』という選択肢はあまりないのだ。
あるとすれば、『嫌だしやらないから、やらない』という選択肢は、ある。
このときは、嫌だという感情だけではなく、やらないという決意がある。『嫌だしやりたくない』からやらない、ということにもならない。感情だけで行動を決めることはなく、私は“決意”で行動を決めることにしているからだ。
かなりストイックに聞こえるかもしれない。自分の感情に対して厳しすぎるのではないか?と思われるかもしれないが、実は逆である。感情“だけ”で動くと、感情を流してしまうことがあるからだ。
感情的になってしまうのは、感情に流されてしまうことによって感情から逃れようとしているのと、同じこと。
つまり、感情の声を大切にしているようで、ただそれに流されているだけなので、むしろ心は満足しない。感情や気分で行動すると、いっときは安心するが、満たされて喜びに溢れるわけではない。
つい感情だけで動いてしまい後から後悔してしまう人は、感情に素直になって行動することが逆に、感情をしっかりと受け止めることを恐れているため生まれる、防衛的な行動であることに気づいてみるといいだろう。
もちろん、まず感情を感じるというところから始まる人もいる。今まで感情を全く感じてこなかった人などだ。
その場合はリハビリとして感情的になってみて、感情だけで動くというレッスンを必要とする時期がある。
そういう時期は、子どもの頃にできなかった感情的で感傷的な表現をやり直すかのように、気分で動き、気分を軸に自分の行動を決めるのも良いだろう。でも、それはずっとではない。人の“感情力(感情筋)”は成長する。
成長する“感情力・感情筋”
感情的になって生きるということは、気分で生きるということだから、それをやるだけやることで、次のステージに移行できる。
感情に流され気分で生きることの次のステージは、感情をもっと高いレベルで知覚し、活用や表現をすること。気分ではなく、気分も大切にしながら“意思”で動く。これが、感情に流され気分で生きる次のステージだ。
そのステージはまるで、小学校の先生になるようなものだ。
あちこちから無鉄砲に飛び交う感情や気分の嵐(声)を聞き入れながら、それらすべての声をまとめてクラスを運営する。できれば、そのクラスでいじめが起こらないようにしたい。一致団結して、先生は“意思”を持って小学校のクラスを運営しなければいけない。
そう、感情や気分に流されて生きるだけの時わたしたちは先生ではなく、“子ども”のポジションにいるのだ。
好きなことを言い、好きなように言い、まとめて誘導して楽しませて満足させてくれるのは、“他の人の役割”と、その時はまだ思っている。(それはそれで、良い。そういう時期も必要だから)
感情や気分に流されるだけではなく、それらを聞き入れた上で、“決意”で動くということは非常に大切である。やりたくないからやらない、のではなく『やりたくない気持ち』と『やらないと決める』ことを分けるのである。
私の感覚はこのようなイメージだ。
ここから先は
¥ 500
もし人生が無条件に自由で豊かだったら何をするかと言われたら書く、というくらい書くことが生きる上で欠かせない人間です。10年間の集大成を大放出します。サポートは全て執筆と研究活動に使わせて頂きます