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1月17日、あの日起きたこと

阪神大震災。あの日から28年経ちました。

学級担任を持っていたころは、毎年自分の被災体験について、子どもたちに語り続けていました。
そうすることが、あの震災で生かされた私の役割だという、少し大げさかもしれない気持ちがあったからです。

SNSでの発信はしてきませんでしたが、noteでなら、言葉にして伝えられるんじゃないかと、このnoteに書き残しておくことにしました。

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1995年1月17日。
あの時私は、実家の神戸で暮らしている大学生でした。

午前5時46分。
当然まだ布団の中でぐっすりと眠りについていました。

誰かに呼ばれる声で、だんだんと意識が戻ってきてきました。

「おーい、◯◯(私の名前)!大丈夫か!」

2階で寝ていた父の呼ぶ声でした。

「大丈夫?当たり前やん!何いってんの!?」

と返事をしようと、体を動かしますが、何かに押さえつけられているような感覚で体が動かないのです。

暗闇にだんだんと目が慣れてきて、様子が見えるようになると、私の寝ている横にあった、洋服ダンスが布団の上に倒れて、私を押さえつけていることに気がつきました。

布団からようやく這い出し、電気をつけようとしましたが、つきません。

父親と兄と互いに無事を確認し合い、家の中の様子を見て回りました。

今から思えば、奇跡としか言いようがないのですが、食器棚の扉が引き戸であったためか、お茶碗、お皿が床に飛び出してこず、一枚も破損していなかったのです。
机の上のものは、乱雑にくずれていましたが、その時はまだ、あんな大事になっているとは気がついていなかったのです。

当時、古い荷物を近くに借りたアパートに置いていた我が家。
その日にたまたま母親が、整理のためにそのアパートに泊まり込んでいたのです。

携帯電話などまだ持っていない時代ですし、そのアパートには電話もひいていなかったので、様子を見に行くために外へ出ました。

夜明けには早く、街灯も点いていませんでしたから、あたりは真っ暗。
それでもだんだん目が慣れてきて、周囲を確認すると、私の家のあった通りは、どの家もいつも通りのように見え、一見何事もなかったかのようでした。

ところが、その通りを出た瞬間、光景が一変しました。
電柱が倒れ、家が傾き、1階部分押しつぶされている家もありました。

急に押し寄せてくる不安の波に後押しされるかのように、スピードを上げて走り出した瞬間、私は、何かに足をとられて転んでしまったのです。

足元をみると、道路のアスファルトに亀裂が入り、小さな段差ができていました。周りの悲惨な状況に目を奪われ、足元など見ていなかったのです。

ようやく、アパートに到着すると…
あったはずの2階建アパートが…なかったのです。

古い木造アパート。震度7などに耐えられるはずもなかったのでしょう。
屋根から2階から、建っていられずに、すべてが崩れ落ちてしまっていました。

母が寝ていた部屋は1階。
もう絶望的でした。
遅れて走ってきた父と兄に、救急車を呼ぶようにお願いしましたが、うちの母だけのために救急車が来れるような状況でないことは一目瞭然です。
その惨状たるや…

がれきの上によじ登り、部屋があったであろう場所を探ってみます。

「お母さーん!」
「◯◯◯(母の名前)!」

この言葉を何度連呼したことでしょう。

一向に返事はありません。
あたりからは、どこからともなく、誰とも知れないうめき声が聞こえてきました。

「助けてあげたい」

その声が一人なら、迷わず助け出そうとしたでしょう。

でも、その声は、一人どころか、あちらこちらから聞こえてくるのです。

そして、今は母親の安否を確認することを最優先していました。
本当は、一人ひとり全員を助けてあげたかった…。
でも、「まずは、お母さん…」そのことにだけ必死になっていました。

どれくらい探したことでしょう。
あたりの暗闇が少しずつ藍色になってきたころ、足元から、目覚まし時計のアラームの音が聞こえてきました。
聞き覚えのある目覚まし時計の音。

「ここだ!」

兄と父と三人がかりで、無我夢中でがれきを取り除いていきました。
すると、なんと、腕が出てきたのです。
必死に周囲を探索する手。
がれきのすき間に顔を突っ込んでみると、そこには母の顔が…。

「生きている!」

奇跡としか言いようがありませんでした。

もう、半分以上諦めかけていた時に、神様は母親を生きて、私たちのもとに返してくださったのです。

必死になってがれきの中から母親を引っ張り出し、近くのマンションの階段に腰を下ろした頃に、ようやく太陽がのぼってきてくれました。

母親の体は、なんと無傷。

あれだけの大きな揺れにもかかわらず、お皿1枚も割れることなく、
あれだけ建物が全壊していたにもかかわらず、母親が無傷で助かったこと。

これ以上の奇跡が他にどこにあるでしょうか。


いったい何が起こっているのか?
この惨状は、いったいどこからどこまで続いているのか?
日本全部がこのような状態なのか?
警察は?救急は?消防は?
一体誰が助けに来てくれるの?

家にもどって落ち着いてくると、こんな疑問と不安が押し寄せてきました。

父親は公務員、兄は赤十字社員だったので、すぐに仕事へ出かけてしまいました。残された私と母親ともう一人の病気の兄とでこの不安と戦わなければなりませんでした。

少しでも情報が欲しかったのだけれど、今のような便利などスマホなどもちろんありません。インターネットもまだ広く普及していない時代。
頼りになるテレビも、停電では全く役に立たず、頼りになる情報源は、ラジオのみでした。

でも、私たち家族は、幸運でした。
なにしろ家が残ったのですから。

家にあった残り物のご飯でおそめの朝食を済ませ、周囲の様子を見に出かけました。

町の被害状況は深刻でした。
倒れた電信柱、傾いた家、崩れ落ちた家、1階部分がつぶれてしまっているマンション。

救急や消防団員と思しき人たちが、がれきの下に取り残された人たちを必死になって救助活動を続けていました。

家族の名前なのでしょう。泣き叫びながら、何度も何度もその名を呼ぶ女性がいました。

近くを流れていた川の向こうから煙があがっていました。

近くにあった小学校には、次々と人が避難してきていました。

近くにあったコンビニは閉店しており、なのに、開店を待つ人の列もありました。

夕方になってもう一度、川向こうの火事を見に行くと、さらに火の手が大きくなって、こちらに向かってきていました。

「逃げた方がいいんじゃないだろうか?」
母親と震えながら、火事の行方を見守っていましたが、幸いにも川を超えてくることはありませんでした。

夕食は、家にあった残り物のおかずとパンですませました。
火事が怖くて、ストーブの日もつけられず、毛布と布団にくるまって、寒さを防ぎ、いつもより随分早く眠ることにしました。

一晩中、救急車や消防車のサイレンが鳴り止まない中、疲れ切った体は、不思議なほど簡単に眠りに落ちていきました。

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これが、私の1月17日の記憶です。

あれから28年。
あの時に助かった母親は、去年、天寿をまっとうしました。
一緒に助けた父親も後を追うように、今年、旅立ってしまいました。

このnoteを書き進めていると、当時の記憶がおぼろげながらも、ところどころは鮮明に、思い出されました。

あの時の奇跡のおかげで、私も私の家族もこれまで幸せに生きてくることができました。
そして、こうやってあの時の記憶を書き残すことができている。

なんだか、不思議な気分です。




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