見出し画像

フリーペーパー包装詩の試作

CUT MY HAIR

白いシャツをきた初老の散髪師は、私にいつものセリフをいう。
「今日もスッキリでいきますか?」
私は答える。
「はい、お願いします」

私はこの散髪師に人生の後半の節目を預けてきた。
散髪することは過去の自分を切り落としたり、新しい自分を創造する儀式だと私は考える。

もちろん、私は過去に何人かの人と付き合ってきたように、
別の散髪師や美容師に散髪してもらいこれまた様々な髪型を試している。
ボブ、ソバージュ、パーマ、金髪、そして時には坊主だったり。

人に歴史ありというならば、
人の歴史は髪型で分類できるのではないか?
縄文時代と江戸時代でまったく髪型が違うように。

ベリーショート時代、ソバージュ自体、三つ編み時代とか。
日本史の歴史年表みたいに書けそうだ。
まぁ、時代の名前なんて、そのくらいのものだ。

私は恋多き人のように、髪型多き人間なのだが、
巡り巡って、この散髪師の提案する髪型に今は落ち着いている。
今は、というのはこれから変わるかもしれないからだ。
引っ越すかもしれないし、この散髪師が引退する可能性もある。

しかしながら、私はこの散髪師を柊木の住処のようには感じているのも事実だ。


ある年齢から、白髪も増え、薄毛になり、短い髪しか試せなくなってしまった。
散髪師は慎重に言葉を選び、丁寧に、そして余計なことは言わずに(これもポイントだ)、
カットしていく。
休日の午後、散髪師との話は、必要最低限だが、
私にはこの沈黙が必要なのだ。

散髪を終え、頭を洗ってもらうと、
最後にトリートメントをつけてもらう。
私は床に落ちた髪をみる。散髪師はきれいに落ちた髪を掃除する。
今まで、私のものだった髪は私のものではなくなっている。
私から私だったものが分離している。
そう、何かを前に進めるには、そういった喪失が必要なのだ。
散髪は私にとって、気持ち良く、日常の中でついた重荷をとり身軽になる作業なのかもしれない。
ある年齢からそう思うようになった。

散髪師にお礼を言い、対価をはらい、
そして外に出ると風が気持ちよく、耳にあたる。
自転車に乗りながら、好きな歌を口ずさむ。
その風もまた、きりたての髪でなければ味わえない。
揚げたてのコロッケと同じなのだ。
髪を切ると、私は何歳になっても新しい私に会える。

目に見えないけど、ちょっとだけアップデートされた気分になる。
もう、アップデート対象からはずされたiPhoneのような私だけれど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?