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我々が人生を問うのではない、人生が我々にとうのだ。

昨夜のnoteを読んだ方から反響の声をいただきました。こうやって文章を書き始めてから初めてのことで、とても嬉しいです。

どうもありがとうございます。

その中に「虚しくないと感じた心境の変化はなぜ起きたのか?なぜ、変わることが出来たのか、詳しく書いたらどうでしょう?」とのご意見をいただきました。

自分でも全てを理解したワケではなく、分からないことの方が多い。

しかし、自分の辿った人生の軌跡を言語化できれば、読んでいただいた方の毎日の暮らしに、なにかヒントとなるかなと、またパソコンに向かった次第です。

今日はひとつだけ思い当たることを書いてみます。

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僕の座右の書はV.E.フランクル著「夜と霧」です。

ご存知の方も多いと思いますが、第二次世界大戦中 ナチスドイツのユダヤ人強制収容所から生き延びた精神科医が書いた著書です。

ときに、苦しいことや辛いことに遭遇しても、この本を読むと「この体験に比べたら、俺の辛いことなんて、蚊に刺されたようなもんだ」と思えてくるのです。

その中にこんな一節があります。

すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われたものとして体験されるのである。人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。

V.E.フランクル 「夜と霧」ドイツ強制収容所の体験記録 みすず書房

この箇所を最初に読んだときは「ピン」とこなかったのですが、最近になって具体的に分かるようになりました。

結局、僕の人生で起こることの意味を僕が問うのではなくて、起きたことに問われているのではないかと。

例えば「安月給」でお金がないなら、その範囲内で生活が出来るようにすることが、僕に課せられた問いなのではないかと。

或いは、自分にしか起きない、仕事や日々の暮らしで起こることは、なぜそれが起きるのかと僕が問うのではなく、その問題に僕が行動により、どう応えるかに掛かっているのです。

より具体的に申し上げます。

僕は現在、身体に故障を抱え、治療の経過が思わしくなく、全身に神経痛があります。夕方になると歩くのもままなりません。それでも動けないなりに、日々の務めを果たしていくことが、人生が僕に与えた課題なのです。その課題に行動で応えること、行動した結果の責任は僕にあるのです。

そう考えられるようになってから、僕は他人(ひと)と自分を比べなくなりました。人に期待しなくなりました。そして、ひとりが怖くなくなったのです。

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それでも、人から仕事をいただいたり、協力してもらったりしています。あるいは仕事以外でも人と食事をしたり、お茶を飲みながら話をすることがあります。それはとても有意義で楽しい時間です。

しかし、人生から与えられた課題は結局、自分ひとりで果たしていかなければならないと思い知りました。

これこそが、いま現在、僕の「人生の大原則」となっております。

この大原則が分かった瞬間に、僕は人間的に変わった感覚を持ちました。

今日はここまでにしましょう。これからも、なぜ変われたのか、他の要因があるか、もっと、掘り下げて考えてみようと考えています。

まとまったらnote書きますね。

それではまた。



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