風の香り 〜僕が本屋でJKに追いかけられた話〜

我々にはいつも恋人がいる。彼女の名前はノスタルジーだ。            アーネスト・ヘミングウェイ

「今日も雨なのか」
最近、雨の日が怖い。病気の治療のために医師から散歩を推奨されているのだが、雨が降ると、ただの散歩が日本代表のアウェイ戦並みにハードになるからだ。

僕は元来、雨が好きだった。雨で部活が中止になると「雨の日は 趣ありて いとをかし」などと歌って顧問に睨まれていた。それが今では、晴れの日が愛おしくて仕方がない。

しかし、雨だからと家にいたところで、することがあるわけでもない。何もせず家でじっとしていたら、気が狂ってしまいそうだ。そんな途方もない恐怖を感じた僕は、外が暗くなり始めてようやく、意を決して家のドアを開けた。
今日の東京の最高気温は11度。外の冷気に触れた瞬間「帰りたーい♪ 帰りたーい♪」とセキスイハイムのCMの音楽と、阿部寛の濃い顔が脳裏を駆け抜けた。
そこに「帰ろうか♪ もう帰ろうよ♪」と木山裕策の歌声まで入ってきて、僕は危うく外出30センチメートルで帰宅しそうになった。
だが負けるわけにはいかない。我はインビクタス〜負けざるものたち〜なのだ。家でボーッとしていても何もできずに後悔するだけだし、どこか行こう。僕はそんな消極的なモチベーションを胸に、とりあえず駅へと歩みを進めた。

「ガラガラガラガラはいおはよう。何ですかこの寒さは!」と武田鉄矢ボイスで呟きながら、凍える体を強い気持ちで押し押し、歩いた。

そうして駅に着くと、いつも通り人でごった返していた。見上げれば暗闇に光るネオンが眩いが、黒いコートと傘がそれを吸収していて、地表レベルでは妙に殺風景だ。
神経が弱っている僕にとって人混みはすなわち苦痛なのだが、たまにはこういうのもいい。いつもは人通りの少ない住宅街ばかり歩いているせいで、職務質問されないかとヒヤヒヤしているのだ。

ここで、ふと思った。どこへ行こう?
電車に乗るのはやめておこう。今の時間に電車に乗ると、トッポのチョコの如く満員電車に流し込まれる。
買い物もやめておこう。今の時間は、世界は自分を中心に回っていると勘違いしている馬鹿者たちが多くてイライラする。
そうこうしながら彷徨しているうちに、とうとう僕は決断した。

そうだ、本屋に行こう。

本屋なら静かだし、変な客も少ないし、興味深い本に出会えるかもしれぬ。もっとも、今の僕に本を読む気力はないので、買っただけで机に積み上げられて山になるのが関の山だろうが。

僕は、駅前で最も大きな本屋に行くことにした。ぶらぶらするには大きな本屋がいい。小さな本屋では何度も同じ場所を歩く羽目になり、「この人間失格の主人公みたいな男、ひょっとして万引きでもするのでは?」と怪しまれてしまう。冗談じゃない。僕は万引きはおろか数分間の立ち読みすらできない小心者なのだ。疑われるのは勘弁だ。

僕はそんなわけで、いっそう勢いを増した雨から逃げるようにして巨大な本屋に駆け込んだ。まずはサッカー雑誌のコーナーを歩く。これは小学生の頃からの、本屋に行った時の習慣だ。次に参考書コーナー。どうせ買っても勉強できる状態ではないのだが、大学受験期に参考書コーナーに慣れ親しんでしまい、これも習慣になっている。最後に、ビジネス書や小説本のコーナーを時間をかけてひやかす。

…楽しい。ただ本を見ているだけなのに楽しい。本を読める状態ではないのに楽しい。やはり僕は、根っからの文学青年なのだろう。

その時だった。長年のサッカー経験で培われた僕の広い間接視野が、近づいてくる数人の人影を捉えた。
それは、女子高生4人の集団だった。
ここは明治〜昭和の文豪コーナーだ。なぜここに女子高生? 国語の課題図書でもあるのか? 
「邪魔になりたくない」という紳士的な配慮よりも、「キラキラしたイマドキ女子の眩しさで自分が消えてしまいそう」という根暗な恐怖感から、僕はその場を立ち去ろうとした。

次の瞬間、事態は恐ろしい展開を迎えた。
4人が、僕を追いかけてきたのだ。
恐怖。なんという華やかな恐怖。過去に一度ゲイっぽい男に付き纏われた経験を持つ僕だが、恐怖は今回の方が強かったかもしれない。なにせ、しつこいのだ。時代小説コーナーに移動してもついてくる。彼女たちが読まないであろう車関連の雑誌コーナーに移動してもついてくる。
なぜだ。なぜ精神を病み療養しているダメ男を、今をときめくJKが追いかけるのだ。

だが、20秒近く僕を悩ませた恐怖と疑念は、彼女たちの1人が発した声で一瞬にして消え失せた。
「先生!逃げないでよ!」
…こんな台詞、教え子を妊娠させた教師しか聞くことがないのでは。妊娠させておいて逃げないでよ!責任取ってよ!と。無論、僕は女子高生を妊娠させるようなアホではない。というか、結婚もせずに人を妊娠させるような冒険心あふれる男ではない。酒に酔っても、クスリをやっても、別に、そんなことはしないだろう。

では何が「逃げないでよ」なのか。「先生」とは。
なんとなく分かってしまった人もいるかもしれない。そう、彼女たちは、僕が学生時代に塾講師のアルバイトで担当していた生徒たちだった。当時中学生だった彼女たちは、今では成長に加えて化粧もしているのだろうか、外見が異なっており、気づかなかったのだ。

「先生久しぶりー 仕事帰りー?」(この子は昔からタメ口)
「ううん、今日は仕事休み。」
「えー平日が休みなんだー」「いいですねー私たちなんて休みは日曜日だけですよ」(この子は昔から敬語)
「アハハ〜さすがブラックだねー(ワイはここ1ヶ月間毎日休みだけど)」
「てかなんでさっき逃げたんですかー?」
「美人になってたから全然気づかなかった」
「それって、昔はブサイクだったって意味じゃん〜」「今、みんなで国語の参考書を探してたんですけど、おすすめってありますか?」(突然変わる話題)
「国語の参考書なら河合塾出版のものが一番信頼できるよ。」(戸惑いながらも的確な回答)

こんなふうに、側からみればモテモテ男、実際は元教え子に参考書の相談をされているだけの元塾講アルバイトという構図でお喋りをした。その後車コーナーから参考書コーナーに移動する間に、いろいろな話を聞いた。
中学時代は別の学校に通っていた彼女たちだが、同じ高校に進んでからは塾での繋がりもあって仲良くなったらしい。今日は、学校の国語教師に勧められた参考書がどうも好きになれず、話し合いの末に自分たちで探すことにして、この本屋に辿り着いたのだとか。

幸い全員似たり寄ったりの学力だったので、勧める参考書は2つで済んだ。(具体的な書名は書かないでおくが、2つとも河合塾が出している定番中の定番とだけ書いておく)
その後彼女たちは僕が勧めた本を2冊ずつ素直に購入し、「じゃあねー」と言って駅の雑踏に消えていった。

思えば、中学時代からいい子たちだった。彼女たちの授業日は火曜日と金曜日で、この2日を僕はサークルと同じくらい楽しみにしていた。
言うまでもなく僕はロリコンではないし、彼女たちに対して特別な感情を持っていたわけでもない。単に皆とてもいい子だったから、楽しかっただけのことである。

こういう書き方をすると、「自分に従順な子を可愛がるのは気持ち悪い」と思う人がいそうなので、付け足しておく。彼女たちは全く従順ではなかった。僕が課した宿題に「多すぎまーす」と反抗して翌週本当にやってこなかったり、授業中に何度起こしてもグーグー寝てしまって進度が遅れたり…
それでも、いい子たちだった。人として、良い人だったと言った方が正確かもしれない。
これは、女子生徒に限った話ではない。男子生徒でも同じだ。塾で働いたことのある人なら分かってくれるだろう。いい子は、可愛いのだ。

だからこそ、幾多の紆余曲折を経て全員が志望校に合格した時は、本当に嬉しかった。僕の人生の、一つの大きなハイライトだろう。

ところで、本屋で僕が勧めた参考書を手に取り、
「ナニコレ〜見たこともないんですけど〜」
「なんかうちの学校、よくわからない参考書買わせるんですよー」
「絶対こっちの方が良さげじゃん」
と、目を見開きながら楽しげに話す彼女たちを見ていたら、懐かしい香りが蘇ってきた。
塾に向かう私鉄の若干トイレっぽい香り、塾の中の汗と制汗スプレーが入り混じった香り、仕事に熱中するあまり毎日のように読んでいた教科書の香り、彼女たちが合格を伝えてくれた時に、走ってきた勢いで生まれた風の香り。

精神を病んでからというもの、騒音には敏感になったが、対照的に香りや味には鈍感になっている。
もしも今の自分があの私鉄に乗り、あの塾に入り、あの教科書を読み、生徒が駆け寄ってきて合格を伝えてくれたとして、記憶の中にあるこの香りを、肌で感じられるだろうか。不可能だろう。
心の機微に訴えかけてくるような繊細な刺激を味わい、楽しむことは、非常に難しい。本能を超えた、豊富な教養と繊細な感覚を必要とするからだろう。
しかしこの時ばかりは、懐かしい記憶となった香りをハッキリと認識することができた。

いつの日か、具合が良くなったら、大学〜塾間を行き来して、あの時と同じ感覚を捕まえられるか試してみようと思う。もちろん塾に入ることは出来ないし、教科書は手元に無いし、「先生!合格したよ!」と駆け寄ってきてくれる生徒もいないのだが。

本屋で彼女たちと話していたのは、時間にしてせいぜい20分程度だろう。しかも、その大半は僕が参考書の適切な使い方を説明している時間だったと思う。
しかしその20分が、僕に、健康だった頃の感覚を思い出させてくれた。追いかけまわされた時に感じた得体の知れない恐怖は、僕を元気づける、ノスタルジーという名の恋人に変わった。

彼女たちには、どうか幸せな人生を歩んでほしい。僕の勉強の仕方や使った参考書は参考にしても、僕の虚無的な考え方は参考にしないでほしい。

本屋で僕を追いかけても、僕の生き方は追いかけないでほしい。

そんな親心のような気持ちを心に抱いて、暗い小道を歩いて帰宅した。
行きはあんなに寒かった通りが、少し暖かい気がした。



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