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【2007秋山奥ツアーその26】

11月19日

不動七重の滝を後にしました。
狭い林道を下って、広い国道に出ました。

さて、次の目的地へと行きましょう。

国道に出てからちょっと走ったら、信号を右折。

川を渡ります。

この道は、林道ではなく、県道レベルの道です。
そこそこ広いです。
ちゃんと片側1車線あるし。
って言ってたら、また車線が無くなった(苦笑)。

「またかよっ」と思ってたら到着しました。

南帝山瀧川寺です。

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ここは、後南朝の王子(皇子は天皇の息子の意味なので、おいら的には悔しいですが、王子と表記しておきます)、尊秀王の墓所があります。

そうです。
おいらの、この奥吉野の旅は、滝と後南朝の史跡を廻ることが目的だったのです。

おいらの母方の祖先は、歌詠み貴族の藤原顕輔と聞いていますが、父方はよく分かりませんでした。

けど、おいらが子供のとき、あまり学の無い伯父さん(すまねぇ)が「先祖は南朝方だった」と話してくれました。
学の無い人が言うくらいですから(すまねぇ)、案外とこういうのって真実ではないかと思っているのです。

父の実家は福島県なんですが、東北地方で南朝方といえば、北畠顕家が思い起こされますよね。
北畠軍に属していて、敗れて帰農したのかなぁと、勝手に想像してます。
楠木一族にも、おいらの苗字と同じ読みの一族がいるので、意外と繋がってたりして・・・
な~んて、妄想が広がります。
おいらが、軍師的策略家なのは、楠木一族の血のなせる業かもしれません(爆)。

妄想ですから(笑)・・・

で、そんなおいらですから、南朝への思い入れは強いのです。
鎌倉でも、鎌倉宮が好きなのは、かわらけを割りたいからではなく、そういった背景があるからなのです。

さて、北朝・南朝交代で天皇を立てるという約束で南北朝統一したものの、足利義満に騙されたと分かり、また南朝の後亀山上皇は吉野に隠れます。
ここから、「後南朝」が始まります。

学校では教えませんね。
1392年南北朝統一ということで、「いざくにとういつ」なんて覚え方をしてる方も多いと思います。

でも、この後、応仁の乱(1467年)頃まで、微弱な力ですが、ゲリラ戦で抵抗し続けるのです。

おいらは、そんな後南朝の史跡を訪ねようと思い、こんな電波も届かないような山奥に来た訳です。

さて、瀧川寺に足を踏み入れましょう・・・

つづく


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