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【2007秋山奥ツアーその28】

11月19日

まぁ付いて来れない人はほっといて(爆)、先に進みます。

さて、なぜこんな山奥に、後醍醐天皇の玄孫のお墓があるかを説明しなければなりますまい。

みなさんは、天皇の即位の際に、三種の神器を継承することをご存知でしょうか?
即位の際に、三種の神器が無かった例もありますが。

つまり、正統なる天皇家の継承者が受け継ぐものなのです。

その神器を、皇居から奪ったのが、尊秀王の父である尊義王の兄である天基親王・円胤などの一党でした。

しかし、天基親王は比叡山で追手に討たれ、円胤も湯浅城に篭って戦うも敗れ、亡くなります。

神器のうちのひとつである神爾は、その弟で僧侶から還俗して万寿寺宮と呼ばれていた、尊義王が受継ぎ、逃避行の末、この奈良の山奥へと逃げ込んできたのです。

その後、行宮を作り、後南朝としての活動を始めるのです。
全然、力はありませんけど・・・

そのうち、父の尊義王は病没し、若い2人の王子である、尊秀王と忠義王が協力し、父の跡を継いで行くことになります。

その頃、室町幕府では、6代将軍足利義教の恐怖政治に怯えた赤松満祐が将軍義教を暗殺しますが、自国で鎮圧されます。
このとき、赤松満祐が担ぎ出したのが、足利直冬の孫の義尊でした。
この、足利義尊についても、おいらはかなり興味がありまして、いずれ書きたいと思います。

さて、話を戻しまして、赤松家の領国は、山名家などに分け与えられ、赤松本家は、次々と討たれます。

そこで、主家再興を目論む赤松家の家臣は、奪われた三種の神器を奪還しようと考えました。

吉野よりさらに山奥にいる、この王子たちのことを、どうして知っていたのでしょうね。
この時代の情報伝達の凄さを感じますね。

赤松家臣たちは、うまいことを言って、尊秀王に従うことになります。
戦いで活躍し、信頼も得るようになります。
そうして、内部に深く入ることに成功し、ついに牙を向くのです。

護衛の少なくなった冬の夜に、赤松家臣に襲われて、18歳だった尊秀王は討たれ、弟の忠義王も討たれた(あるいは逃げたものの、後に病死説もあり)のです。

その首は、逃走を企てる赤松家臣から村人たちが奪い返し、手厚く葬られたとのことです。

その尊秀王のお墓ということになっているのが、この瀧川寺にあるのです。

なんで、こんな山奥にお墓があるのか、長々と説明しました(笑)。

ちなみに、柿の葉寿司ってありますよね。
柿の葉に包まれた、鯖やら鮭などの押し寿司がおいしいですが。

その柿の葉で包むことは、殺菌効果があり、日持ちもするということですが、一説として、尊秀王が村人から寿司を振舞われたとき、家臣などにも分け与えようとするにも皿など無く、柿の葉に乗せて、家臣たちに
分け与えたことによるというのもあるんですよ。

さて、説明もしたので、そろそろお寺に入りましょうか。

つづく

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