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50歳日誌、3週目。
土曜日の夕方、茨城に住んでる妹からLINEでメッセージが入った。「赤岩のおじさんが今朝亡くなったんだって」。
赤岩というのは、父親の実家がある群馬の地名。太田のおじさん、足利のおばさん、平塚のおじさん……。親戚というのはたいてい、住んでる土地の名前+「のおじさん」「のおばさん」という呼ばれ方をする。「赤岩のおじさん」は、うちの父親のお兄さん。農家をやっている「橋本」の本家を継いだ人だ。
少し前から施設に入っていると聞いていた。去年の夏に実家に帰ったときに「兄貴のゴルフクラブいるか?」と父親に言われて、PRGRのウッドを3本もらった。これがよく飛ぶんだが……。
「兄貴ももう使わないから」。──そうか、ゴルフ好きだったおじさんも、もうゴルフもできないんだなぁと思った。
おじさんの記憶といえば、ランニングシャツに麦わら帽子をかぶって、耕運機に乗って畑から帰ってくる姿だ。農家というものを知らないボクにとって、父親の実家を訪れるのはなかなかの冒険だった。家は古いし、土間でねずみは走ってるし、トイレは薄暗い離れだし(笑)。でも、従兄弟たちと、その広い敷地や裏山の竹林、近くの田んぼに行って遊び回るのは本当に楽しかった。
竹林の横にある豚小屋にいた豚に餌をあげたりしていたのに、次に行ったときには、あの豚たちがいない。「豚どこいったん?」と従兄弟に聞くと「先週売られちゃったんよ」と、こともなげに言う。新興住宅地に住む小学生には経験できないことを、あの家ではいろいろ経験したなあと思う。
おじさんは、決して口数の多くない人だったので、あんまり話した記憶はない。だけど、なぜか一度だけ一緒に風呂に入ったことがあった。「家に帰るまえにおじさんと一緒にお風呂入っちゃいなよ」とか言われたのかもしれない。
橋本家の風呂はめちゃめちゃ熱い。昔の家だから、ものすごく暗い照明(20Wぐらい?)の風呂場。窓枠はサッシじゃなくて木枠だ。「この間さ、納屋の北側の窓から外見たらね、蛇がぶらさがってたんよ~こわー!」っていう従兄弟の話を聞いた後だったから、やけにくもりガラスの外がコワい。しかも熱気で熱いから、すこしだけ窓は開いている(笑)。当時の風呂場というのは小さくて丸いタイルが貼ってあることが多かった。そのタイル貼りの風呂場で、おじさんと湯船につかった記憶がよみがえった。
「ひろしくんなぁ将来何になりたいん? お父さんに似て絵が上手なんだろ? 絵かきか?」
「いや、絵かきじゃないよ、パイロットだよ」
20ぐらい数えると痺れてくる熱さの湯船で、おじさんとそんな話をした。
ボクの父親は9人兄弟の6番目。だから、ボクには父方の親戚だけで従兄弟が20人以上はいる。盆や正月で親戚が集まると、そりゃもう大宴会だ。
父の実家は居間の襖を開くと奥の間と続きになっていて大宴会場に変わる、昔ながらの家。どこにしまってってあるのか、四角い折りたたみ式のちゃぶ台が6つぐらい縦に並んで、父親の兄弟夫婦たちが揃って宴会が始まる。
子どもたち(孫=ぼくら従兄弟たち)は、盆でも正月でも、さまざまな年代が入り混じって最低10人ぐらいは揃う。急な階段を上った二階が子どもたちの遊び場。人生ゲームをやったり、大貧民をやって、少し年上の「かしこい」従兄弟に大負けして悔しがったり……。群馬なので「上毛かるた」っていうのもやった。お腹がへると、階下の親たちが宴会しているところに行って料理をわけてもらう。
うちの父親と、彼にそっくりな平塚のおじさん(おやじの弟)はビールで酔っ払って赤い顔をしてその場で寝っ転がっている(飲んで寝ちゃうのは橋本家の遺伝子)。土間の近くには火鉢があって練炭が焚かれている。練炭の火というのは、本当に真っ赤だ。そのそばには常に婆ちゃんがいて、シメでみんなが食べる蕎麦のつゆを煮ている。そんな景色が父親の実家での記憶だ。従兄弟と遊ぶのは、学校や近所の友達と遊ぶのとはまた違って、楽しかった。
最後に従兄弟みんなで集まったのは、婆ちゃんの葬式の時だったかもしれない。まだ当時は自宅で盛大にお葬式をする時代だった。葬儀屋がいろんな電飾を搬入しに来たり、近所の人が手伝いに来たりする。忙しそうに動き回る大人たちを尻目に、子どもたちはいつものように遊び回っていた。しばらくすると病院から自宅に帰ってきた婆ちゃんが居間に寝かされる。動かないのが不思議だった。
夜、アメリカに赴任していて死に目に間に合わなかった東京のおじさんがタクシーで駆けつけた。婆ちゃんの枕元で声をあげて大泣きしている姿を、従兄弟と遠くの部屋から見た。ただならぬ「空気」を、小学生のボクたちも感じ取った。もう40年以上前の記憶だ。
赤岩のおじさんの葬儀は、家族葬だという。しかもこのコロナ禍だ。ひと目会っておいたほうがいいような気がしたんだけれども、父親に電話で相談しても「年寄りも多いから行かないほうがいいんじゃないか」という。たしかに。
結局、遠慮した。
葬儀の日の夜、妹から写真が送られてきた。従兄弟たちの集合写真。さすがに全員は揃わなかったけど意外と来たんだよ、と両親は言っていた。7~8人ほどだけど40年後の集合写真。おじさんの子ども(つまり従兄弟)から転送されてきたんだと妹は言う。
「えー、わかんない。これが足利のさっちゃんだろ、これはルミコちゃん、なんだよ同期が二人来てるじゃん!」
従兄弟で70年~71年生まれはボクを入れて3人いる。
「あー、マルコ!」
従兄弟のマルコは、「ちびまる子ちゃん」ではなく、「母を訪ねて三千里のマルコ」に似ていたからマルコ(笑)。今でもマルコに似ているなあと思うけどね。
写ってる従兄弟の半分は誰だかわからなかったけど、妹が解説してくれた。
「ヒトシ君は今年60歳。一番若い平塚のよっちゃんが40歳なんだって。」
いい写真だった。やっぱり行けばよかったな。
赤岩のおじさんはきっと、あの正月の大宴会を再現する機会をつくってくれたんだな。そう思った。お彼岸に行けるかお盆になるかわからないけど、ちゃんとおじさんに挨拶にいかないとなあ。
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