見出し画像

「まとまった時間」

「緊急事態宣言解除」の寂しさ

武蔵小山の駅前からは、全く東京アラートに付随するような雰囲気はなく、そもそも日本人はマスクをしている率も高いからほとんど日常と言っていい光景になってきた。

コーチングのクライアントとセッションを始めるとき、最初にお互い今どんなことを感じているのか、自分の状態に意識的になるために「スペースチェック」ということを行う。

「緊急事態宣言が終わることに少し寂しさを感じる」

クライアントによってそれぞれの表現はあるが、まるで8月31日の小学生のように、夏休みが終わる寂しさのようなスペースチェックが最近多い。

早く日常に戻って欲しいというその人中の声よりも、今までの会社ってなんだったんだ?ぐらい様々なことが移動せづ可能で、家族とも違った時間の使い方ができることへの郷愁にも似た声の存在が大きく感じる。

僕自身も近い感覚がある。

もともとオンライン比率は低くなかったので正直コロナ以前とあまり変わらない部分もあるが、様々な仕事が一旦キャンセルになったこともあり時間に余裕ができた。そして最近は一気に忙しくなり始めた。仕事は喜びもあるし、何か嫌なことをやっている感覚はないが、あの余裕のある時間が遠のくことには「寂しい」感覚がある。

まとまった時間

何がそう思わせてるんだろう?と結構考えてみて、いくつか思いつくことがあるのだが一番自分にとってインパクトがあったことは「まとまった時間」があったことだ。

どこにも行かず、軽いひきこもり的な時間を過ごせたことがとてもインパクトがあった。

4月途中からGWあたりは本当に何も予定がない日が数日続いた。

スケジュール真っ白。

普通こういうの焦るのかもしれないけど、僕の勤労意欲の低さがこういう時に活かされる。

理想:そんな時間は、本を読んだり、これまでの仕事を棚卸ししたり‥

このような素晴らしい文章でここから続けたい。が、

現実:本当にぼーっとした時間を過ごした。無目的だし、何もしない。ちょっと現実逃避気味とも言える。

一般的に生産性が高いとは到底言い難い。意識高い系の人には怒られそう。とにかくスケジュールされた何かが無い時間。

こういう時間の使い方がいいか悪いか、それは人それぞれだと思う。変に肯定したいとも思わない。ただ、まとまった時間を取れたことは貴重だった。

よくよく思い出せば、独立した翌年に東日本大震災が起きて仕事が一気に減った時期、かけ出しの僕にとってはその時も期せずして膨大な、おおよそ会社員では難しいであろう、誰にもほとんど急かされることのない期間があった。

この時期に過ごした時間は本当に新鮮で、何にも分断されない「まとまった時間」。

色々じっくり考えたり、自然と浮き上がってくる事とともに入れた時間だった。誰かの目が気になったら絶対に、忙しそうに振る舞ったに違いない。

実際にこの期間に様々な意図しない、自分にとって様々な気づきがあった。

・コーチングは自分にとって人の行動変容とかそういうことを促すのではなくて、その人の本領発揮を応援する仕事だということが明らかになったり、言葉として浮かんできたり、

・社交的だと思っていた自分は、実は内向的な側面を抑えていたに過ぎなかったことに気づいたり、

・死ぬ直前に食べたいものは、ご飯と納豆とキムチでいいことを知ったり、

まとまった、一見無目的な時間がこう言った発見を醸成してくれた。


深く考えたり、じっくり感じたり、何かが浮かび上がってくるにはまとまった時間が必要だ。

以前脳科学の専門家の話が、集中するということの定義は目の前の具体的なタスクに集中的に取り組む的なものだけのことではなく、少し視野や時間軸をワイドに持って、意識を広げていくという集中もあると言っていた。温泉に入ってボーッとすることもある意味で集中と捉えることができるらしい。

「時間をこま切れにされたら、人は何ものにもなることができない。」


ちょうど、僕が東日本大震災で1人で過ごす時間が長かった時に、吉本隆明さんの本を読みあさっていて、2002年に刊行された「ひきこもれ~ひとりの時間をもつということ 」という本の中での言葉を思い出す。

「時間をこま切れにされたら、人は何ものにもなることができない。」

この本の文脈は、ひきこもりは決して悪いわけではない。むしろ人が成長する中で必要だということを言っているのですが、この引きこもるということは、即ち「まとまったひとりの時間を取る」ということを言っている。

この言葉は重い。

株式会社JINSの新しいプロジェクトとしてスタートした「Think Lab(シンク・ラボ)」。(集中力」と「働く環境」の研究をしている、目の動きのデータから様々な検証結果を出していて面白い!)こちらの井上一鷹さんの話で、会社は人が集中できない環境らしく、データでは11分に一度は何かしら話しかけられるらしい。常に何かに干渉され続ける、とても集中には向いていない環境とのこと。(もちろん会社や職種による)

この話を聞いて、じゃあ真面目に会社にいたら、人は何者にもなることができないじゃないか!?

過激な想いが浮かぶ。

それはちょっと大袈裟で全てのことに当てはまるわけではないけれど、意外に的を得ているかもしれないし、感覚的にはしっくりくる感じも正直ある。

実際まとまった時間を取ることは、会社によってはとても難易度が高い。2日以上の研修を行うことすら難しい会社が多い中、まとまった、それも1人で時間を取ることは難易度Dでも不思議じゃない。

そう言った日常の中に訪れた、「まとまった時間」を過ごせる貴重な機会。

だから、多くの人がこの状況が終わっていくことに寂しさを感じるのかもしれない。

これからのNew Normalは一体どうなっていくのか正直わからないけれど、「1人のまとまった時間」を持つことは大事なことだと思う。

発酵させるための時間がないと、やっぱり美味しくならない。

死ぬ前に納豆とキムチが食べたいというのもここに繋がっていくのか?俺は美味しくなるのか?








この記事を読んで、支援したいなと思っていただいたみなさん。このブログは僕自身や、僕が熱がある領域に関して自由に書いてます。サポート、いいね、スキボタンを押していただいたり、SNSでシェアしてもらうと猛烈に喜びます。リアクションをお願いします。