臆病さとの共存

 風邪を引いた。多分今年5回目くらいの風邪だ。僕は身体が弱いので少し油断しただけでこうなってしまうのである。まあ、もうこれくらいは慣れっこ(になってしまった)なので、切り替えて現実逃避をしていこう。


 僕は丁寧な性格である……と言われることがある。同級生に対して名字+くん(さん)で呼ぶのはまだ普通だが、後輩に対しても基本的には名字+くんづけで呼んでいるのもあるし、同学科の子が何か聞いてきたら出来る範囲で答えているのも一因なのだろう。聞いておきたい部分は講師にメールで聞くこともする。その講師からは真面目だという評価を受ける。

 だが、違う。僕は丁寧なのではなく、臆病なのだ。同級生や後輩に対してくんづけをするのも、ただ心の壁を張っているだけなのである。もしもATフィールドが現実世界にあるとしたら、恐らく僕の心の壁――ATフィールドはとても、とても固いだろうことは容易に想像が出来る。講師にメールで質問をしたり、同学年の子に何かを教えるのだって、それをしなかった場合のリスクを考えてのことだ。聞くべきところを聞けなかったら後に単位に響くおそれがあるし、無愛想に接して「こいつは薄情でどうしようもないやつだ」などと思われたら、僕のいる学科のように女子の比率が高くグループワークが多い所では簡単に孤立してしまうことは想像に難くない。ゆえに僕の丁寧さや優しさというものは全てリスク管理に基づいたものなのだ。

 また、僕はよく周りの人間に「ホラ、僕は表裏のない素直な性格だから」とほざいている。勿論嘘である。僕ほど二面性がハッキリしている人間をあまり見ない程度には強い二面性を持っている。これだって勿論、ATフィールドだ。他人を気遣い、イライラを顔に出すことも殆どなく、割となんでもそつなくやれる。そのような仮面を被るのは得意なのである。小学生の頃から親の前でもやってきたのだ、他人の前でできないはずがない(酔っ払った時を除く)。

 いつからこんなに臆病になってしまったのだろうか、といつも考える。他人の顔色を窺い、雰囲気を感知し、自分に危害が加えられることのないように行動する。こんなこと、高校生の頃はしていなかった。「人間なんて好き嫌いがあるものなのだから取り繕っても無駄無駄」――数少ない、仮面を被ることを止めていた5年前の僕はハッキリこう言っていた。なのに、今になって何故またこんなふうになってしまったのか。

 思うに、それは自分が社会の仕組みを昔より少し詳しく知ったからなのかもしれない。5年前の僕がそのまま変わらずにここにいたとすれば、間違いなく学科内では鼻つまみ者扱いを受けているだろうし、周囲の人間との関係も悪かっただろう。それでは僕は将来を生きることが出来なくなる、そう考えることが出来たからなのだろう。大昔に石器を使っていた人間が金属を使うことを覚えたように、僕も昔無視していた他人の目線や感情に機敏になることを覚えた。そうやって少しでもポジティヴに考えると、この臆病な自分も悪くはないと思える。

 臆病さとは弱さだと多くの人は思うだろうし、僕もそう思う。もっと勇気を出して色々な人と接する努力をしていれば、もっと明るい生活を送れたのかもしれない。だけどこの臆病さは、あまりにも弱い僕が潰れずに今を生きるための知恵でもある。他人の感情を感じ取り、少しでも自分のリスクが少なくなるような行動を取る。結果的にそれはリターンとなって帰ってくる。知恵のお蔭で、ある程度の評価を貰えたし昔よりも少し生きやすくなった。まあ、その結果ネガティヴエンジンを搭載してしまったのだけど。

 いつか、ゼミの講師にこう言われたことがある。

「君はすべての物事を知的にしか捉えられていないんでしょう。感情や感覚が麻痺している」と。そして多分それは間違ってはいない。仮面を被る僕は損得で物事を考える、効率的で機械的な人間であるという自覚があるから。

 そんな僕が仮面を外し、唯一感情を吐き出せる、麻痺せずに生きていけるのがこの匿名の世界だ。ここに居場所を持てたことに対する感謝をしながら、今日の現実逃避を終わろうと思う。

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