(真面目に)今年の振り返り

 読書を再開した。久しぶりに京極夏彦を読んだとき、しんどすぎて頭痛がする錯覚を覚えた。それくらい感覚を忘れていたんだと思う。本を読む楽しみを思い出せた。そんな一年だった。

 不運だった。エピソードには事欠かないくらい、とにかく不運が続いた。来年はもうちょっと幸運だったらいいなあ、なんて思う。

 洞察力に磨きがかかった。かかってしまった。友人が同じ学科の女子と交際しているであろうことを、女子の友人への視線や友人の微妙な態度からなんとなく察する。友人と2人で遊んだ時に聞いてみたら驚かれた。誰にも話してないし表に出すこともしてなかったのに、と。僕はその女子とも交流があるので、そっちから聞いたのかと問い詰められた。なんとか誤解は解けて仲直りもした。あと、いつもいる友人グループの中で「こいつ、多分あの子(同じグループの人)のこと嫌いなんだろうな」と察した。聞いてみたら案の定だった。人の仮面を見せつけられているようで、なんとなく生きづらくなった。

 嘘を見抜くのが得意になった。上のこととも関係するが、「あ、この人はお世辞でこんなこと言ってるな」「あ、この人ホントはそんな用事ないな」みたいなのがわかるようになった。人間不信が加速した。

 文章を書くのが下手くそになった。去年や一昨年はもっと上手く書けていたのになあ、と感じることが多くなった。過去の文章を見ると、「なんだこのヘッタクソなの」と思う。自己嫌悪が加速した。

 生活に投資をしてみた。いいバスマットを買ってみたり、ワイヤレスイヤホンを買ったり、あとは棚だったりカーペットだったり。一気に生活におけるストレスが減った。少しだけ生きやすくなった。


 総評すると、やっぱり自分には何もなかったなと思う。より正確に言えばそんなこともないのだが、自分の周りの世界が激変していく中、一人取り残されているような、そんな感覚でいる。皆が社会に適応していくためにシステムアップデートを繰り返す中、僕はずっと古いバージョンのまま歩いている。「らしさ」とか言って誤魔化してみても、結局はサボっているだけなのだと実感する。僕は結局自分が嫌いで、他人を信じることが出来ず、故にいつまでも進歩のない。そういう人間ということだ。

 しかし、しかしだ。自虐と不信を配合させると自信になる。虐と不は配合の結果どこかへと去っていった。毎年のように親にも友人にも「疑り深すぎる、もっと人を信じてみたらどうか」と言われるのだが、これが僕なのである。誰がなんと言おうと、根のネガティヴから生まれる自虐と不信は僕にとってはアイデンティティだ。これを失ってしまえば僕ではなくなってしまう、そんな確信さえ持っている。


 ……とはいえ、アップデートをサボりすぎると僕が嫌悪する「昔の価値観で今を語る老害」になってしまうのは明らかだ。だから、まあ。そろそろこういう自分から離れる決意をするときなのかもしれないなと思う。だけど、根付いた性格を今更変えることなんてまず不可能であるわけで。ゆえに、まずは1日半歩でもいいから、歩いてみる。僕という社会不適合者が、自虐があってもいい、まずは身近な他人、つまり友人をちょっとでも信じることが出来るようになるために。変えるのではなく、増やす。「自虐するし、他人は信じられない」から、「自虐するし、他人は信じられない。でも、友人なら少しは信じられる」へ。

 辛いだろうがやっていこう。多分、人生ってのはそういうものだから。


来年の目標:「人間になる」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?