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ネバーエンディング ピース&ラブ(ネパール旅行記)④

(7)チトワン国立公園のマイ・フレンド 

この旅ではネパールのジャングルにも出掛けている。首都カトマンズより南に位置するチトワン国立公園だ。首都カトマンズからバラトプル空港までフライトがあり、そこから乗合タクシーで1時間程度の場所にある。

ジャングルって言葉はいろいろ想像するものがあって魅力的だ。ただ、アフリカやボルネオのジャングルとは異なり、ムチャクチャ暑い訳でも、熱帯雨林が広がっている訳でもなかった。植生こそ日本より温帯だけど、農村風景に近かった。そこで、トランクス1枚でゾウの背中に乗って川に入っていく。そこで、ゾウが鼻からプシューと水を吹きかけてくれたり、手加減しながらあのデカイ図体を器用に揺らした末に川に落としてくれた。ゾウ使いもタイのチェンマイと比べたらゾウに対してソフトな扱いをしていた。

別の日には、4WDで繰り出してサイ、クジャク、バンビなどを見つけた。ヒョウは見られなかったけど、羽根が青く輝いているキングフィッシャーとか、羽がペリカンのように長く垂れ下がったクチバシを持つ鳥も生息していた。そんな環境でノンビリ、マッタリしていた。勿論、30~50cmのトカゲ、大きなクモ、毛虫などありがたくない虫もいるけどそれらもひっくるめてジャングルなのだ。たまたま、私が旭山動物園のTシャツを着ていた。それがマンガっぽいシロクマ君のデザインだったので、4WDで同行していた欧米ツーリストが「私もアサヒヤマ・ズーに行ったよ」と喜んでくれた。

宿の近くに、泥壁の家が立ち並んでいた。ホテルも民家もちょうどナショナル・パークの柵が張られているすぐ外側にあった。小さな女の子2人から「マイ・フレンド~」と優しく声を掛けられる。欧米ツーリストも私もそこの11才と9才の女の子たちと親しくなって、夕方から夜にかけて喋っていた。家の中に入ってみると大きな鍋が焚火に掛けられていて、子供が薪をくべていた。彼女たちの家はおよそ豊かではないけど、けっしてバクシーシを要求してこなかったので気持ちがラクだった。インドとネパール、どちらも好きな国だけどこれがネパール人の姿だ。

「明日も夕方5時に来てね」と約束を交わして別れた。翌日はやや薄暗くなった頃に立ち寄った。近隣の家族も含めて結局のところどれくらい集まってきたのか定かでなかったが、暗闇の中で会話しつつ別れ際に記念撮影した。で、帰国してからよくよく見ると子供だけではなく、なんとネパール美女も含めて6~7名の女性と一緒に映っていた事にビックリ。当時の彼女達にとってスマホはおろかメールアドレスも持っていなかったので、写真を焼き増ししてエアメールで5枚ほど送付した。

因みに、私はネパール旅行とほぼ同じ時期にパプアニューギニアへ旅している。この両国はどちらも電力不足に悩まされており、突然に停電するのも似通っていた。なのに、パプアニューギニアのゴロカでは当たり前のようにノキアの携帯電話が流通していた。熱帯のパプアでは裸族が現役だとかムームーを食べるとか相当にプリミティブだと信じ込んでいたので、両国のギャップに驚いた。チトワンでまだITインフラが普及していない事が同時代的に見てなんとも不思議だったのだ。

チトワンの女性たちと

(8)チトワンの英語は難しい、ザルマニアって一体どこの国なんだ  

アジア各地で耳にする英語はブロークンなので日本人にも聞き取りやすい。でも、この辺りの英語はヤケに聴き取り難かった。最初に驚いたのがバラトプル空港で聞いた「お前は宿をブッキングしていないのか。俺はザルマニアの客を待っているんだ。彼が来たら村に連れて行ってやる」って一言だった。ザルマニアって国は一体どこに存在しているのか。そんな国が地球上にあったのか、もしかして世界史を紐解いていけばそんな国名が登場するのかも知れないが、まったく想像が付かなかった。

とにかくチトワンの村まで行く探りながら会話していると、どう訛ったのか不明だけど、どうやらゲルマニアの事らしい。ゲルマニアってゲルマン人であり、読み方を変えてみればジャーマン、ドイツ人だなって推測ができた。そこまで辿り着いてようやくスッキリした。フィスって英語も理解できなかった。これは吃音を思いっきり縮めたフィッシュで魚の事だった。

***

ネパールを訪問したのは、3.11東日本大震災のあった2011年だった。大震災から僅か2ケ月だったため世界がフクシマを心配していた時期だった。ネパールでも「地震で原発は大丈夫なのか?」と訊かれた。

なんでもない会話ならラフな英語でやり過ごす事もできるけど、キッチリと英語を喋れないとこういう時に辛い。あまりにもボキャブラリーが貧弱なのだ。フクシマって地名は彼らも知っているけど、原子力発電所をどうにも英訳できなくて、思わず「Atomic bomb(原子爆弾)」と口を滑らせてしまった。それこそ原発事故の比ではない大失態だった。東京オリンピックの招致活動の「アンダー・コントロール」演説を聞いた後なら無責任に「大丈夫だヨ」と言えただろう。ただ、私がネパールを訪れた頃は最も深刻な時期だった。こちらが困った表情で口籠っているのを察して、ホテルオーナーが「原発対応はスティル・オープン(still open)なんだな」とフォローしてくれた。

ネパール人はみんな等しく優しかった。インド人のニヤニヤした表情、堂々としたウソも嫌いじゃないけど、明らかに国民性は違っているな。それと、たった2つの優しい英単語でお互いに意思疎通ができる事のだと改めて気付かされた。なのにその2語が出てこない自分の英語の拙さともどかしさに恥ずかしさを禁じ得なかった。発音が間違っているんじゃないかなどと細かな事に拘るんじゃなくて、ザルマニアでもフィスでも喋った方が早く上達するんだと言い聞かせた。

カトマンズのレストランにて

(9)そして、今  

あれからもう10年ほど経過している。この10年の間にネパールは大地震に見舞われた。2015年4月の地震はマグニチュード7.8だった。建物が倒壊している映像をTVで見て、ネパールの民家に使われている赤レンガは6つくらい大きな空洞が開いていて実はスカスカに薄かった事を思い出した。あれではとても構造的に持たないだろう。

チトワンのホテルオーナーが無事なのか知りたくて、インターネットでホテルのサイトを検索した。そのアドレスにメールを送ってみたけど、結局返信は来なかった。ホテルのオーナーが「お前が結婚したらまたここへ遊び来い。その時はホテルじゃなくて俺の家に泊めてやる」と優しい表情で言ってくれた男だったので、猶更その消息が気になる。

ポカラで買ったサンダルはソールが丈夫だけどいかにも硬くて山には不向きなので、今でもスーパーへ買い物に行くのに履いている。同時に買った安物のポンチョは、八ヶ岳とか北アルプスに登る時にいつもザックの奥に押し込んである。

ポンチョを被ると偶に思う。ダンカジはプロの登山ガイドに成長できたのか。それとも、登山コックとしてフランス人ツーリストに料理を振舞えるようになったのだろうか。




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